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六義園へ

『殿様の休憩処は遠すぎる!5桁の数字並ぶ万歩計』

先日、やっと行けた東洋文庫ミュージアム↓

つづきです…

気が付けば1時を過ぎており、お腹が空いている。
ミュージアムショップに小岩井農場のジャムやクッキーが売っていたので「?」と思っていたら、小岩井農場って岩崎弥太郎の弟が出資していたんだって⁉︎ ここもあそこも三菱財閥…商売上手。

中庭を通って素敵なミュージアム・カフェへ向かったが、満席! 断念する。
地図にあった『六義園』を思い出し、行ってみることにした。

立派な煉瓦の塀に囲まれた庭園。
入口には、この庭園の歴史がずらずらと書いてあった。

穏やか〜都会であることを忘れる空気感


六義園のHPより↓

「六義園は造園当時から小石川後楽園とともに江戸の二大庭園に数えられておりました。元禄8年(1695年)、五代将軍・徳川綱吉より下屋敷として与えられた駒込の地に、川越藩主・柳澤吉保自ら設計、指揮し、平坦な武蔵野の一隅に池を掘り、山を築き、7年の歳月をかけて「回遊式築山泉水庭園」を造り上げました。
六義園は吉保の文学的造詣の深さを反映した繊細で温和な日本庭園です。
庭園の名称は、中国の古い漢詩集である「毛詩」の「詩の六義」、すなわち風・賦・比・興・雅・頌という分類法を、紀貫之が転用した和歌の「六体」に由来します。
庭園は中の島を有する大泉水を樹林が取り囲み、紀州(現在の和歌山県)和歌の浦の景勝や和歌に詠まれた名勝の景観が八十八境として映し出されています。
明治時代に入り、岩崎彌太郎氏(三菱創設者)の所有となった当園は、昭和13年に東京市に寄付されて一般公開されることになりました。昭和28年3月31日に国の特別名勝に指定されました。」

岩崎家の別邸として使われたらしいが、ここも三菱財閥!
別邸と言っても広すぎやしないか⁉︎「ちょっとお庭をお散歩」するにしても、小高い丘もあるし島もある。気がつけば1時間は歩いている。江戸時代の人々は、足腰が強かったのだなぁと感心する。
そして、お腹が空いていることを思い出した。
地図を見ると【吹上茶屋】を発見、【大泉水】の向こう側ではないか!まだまだ歩く。

【大泉水】の向こうに立派な雪吊りの松
そこが【吹上茶屋】らしい


庭園中の松は一本ずつに立派な雪吊りと
菰が巻かれてある


茶屋に辿り着いた時は3時。行き届いた手入れの庭に興奮していたので、空腹感を忘れていた。
茶屋で、お抹茶と上生菓子セットをゆっくりといただいた。
【大泉水】を眺めていると、カラスや鵜が水浴びをしていたり、アオサギが考え深く佇んでいたり、大都会の真ん中とは思えないほどの静けさと穏やかな空気に癒される。
日本庭園の美しさを肌で感じながら、歩き疲れた足を休めて岩崎弥太郎のことを考えた。

ここの他にも、明治になってから江戸じゅうの元藩邸を岩崎弥太郎は買いあさった。私は司馬遼太郎の『龍馬がいく』が大好きで、そこに出てくる岩崎弥太郎があまり好きではない。
坂本龍馬の側で学んだ貿易会社の運営が三菱財閥を作り、欲しいものは手に入れて行ったと感じていた。しかし、徳川幕府が倒れてから荒れ果てた藩邸を買い、手入れをし残していったと考えると、私物化するためだけではなく、良きものを残そうとの行動だったのかもしれない。
彼が残してくれた数々の日本文化はとても貴重なもので、私が今こうして見て感じられるのも岩崎弥太郎のおかげなのかと思うと、少し敬う気持ちも出てきた。

雪吊りを下から見るととても美しい
この雪吊りは4人の職人さんが
1ヶ月かけて作るんだって
茶屋のお姉さんに教えてもらった


庭師さんの素晴らしい技術に驚きながら、時計を見ると4時⁉︎
夕ご飯を作るため帰らねば〜!

結局、ランチが食べられなかった…
帰りの新幹線の中でおにぎりをかじる(TT)

久しぶりの一人時間は岩崎弥太郎にどっぷりと浸かった一日だったけど、日常から離れて気分転換にもなり「明日も元気に生きよう!」と思えたので、とりあえず岩崎弥太郎に感謝!