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【Story of Life 私の人生】 第48話:闘病生活の始まり Part 2

こんにちは、木原啓子です。
Story of Life 私の人生 
前回は、 第47話:闘病生活の始まり Part 1 をお送りしました。
病院に行き、翌日入院することになったところまでのお話でしたが、今日は、入院中のお話をメインにしようと思います。

入院の当日の朝、父は普段通り仕事に出掛けていきました。
私は、母と一緒に荷物を持って、タクシーで病院に向かいました。
病院に着いたら、まずは昨日支払が出来なかった診察料の精算。
母も、外来で3万円を超える請求額を見て、さすがに驚いていましたっけ。
診察料の精算が済んだら、次は入院手続き。
こちらの方は父の時に経験済みだから、書類を書いて、保証金を支払って、問題なく完了しました。

主治医の先生は父と同じだから、入院する病棟も同じでした。
看護婦さんも知っている方ばかりだったので、心強かったです。
病室は6人部屋でしたが、母くらいの年齢の方ばかり。
皆さん、心臓を患っている方で、手術が終わった方、これから手術をする方、検査中の方と、まちまちでした。
小さい頃から「医者慣れ」している私ですが、入院は生まれて初めての経験。
移動教室や修学旅行とは、別の意味での「集団生活」の始まりとなりました。

パジャマに着替えて、荷物を棚にしまい終わったところで、主治医の先生がお見えになって、今後のスケジュール説明を受けました。
昨日の検査結果が戻ってきて、バセドー氏病は確定したので、まずは抗甲状腺薬の投与を開始することになりました。
また、今後2週間かけて、全身を隈なく検査していき、治療方針を決めるということでした。
説明が終わると母は家に帰り、すぐにお昼ご飯になりました。
「給食」みたいな感じですが、生まれて初めて「病院食」というものを食べました。
正直なところ、あまり美味しいとは思わなかったです。
また、いくら食べてもお腹が空く状態だったし「おかわり」が出来ないのは、とても苦痛でした。
その時、初めて家で食べるご飯の「有り難み」が、本当に身に染みました。

次の食事までの数時間、空腹に耐えられず、お小遣いを握りしめて、売店で菓子パンやお菓子を買ってきて食べながら、次のご飯が来るまで耐え忍ぶということを、初日からしていたのですが…
心臓病の方は、例外なく「食事制限」があるので、同室のおばさん達にとっては、私の取った行動がかなり気に障った模様です。
とはいえ、こっちだって「病気」が原因での空腹な訳です。
それでも、人間の欲求や感情は正直なのでしょうね、かなり嫌味を言われ続け、看護婦さん達にも苦情を言われ続けてしまいました(泣)
病室内に「年功序列」みたいなものがあり、その頃一番の「新顔」だった私は、皆さんの文句に耐えるしかなくて。
針の筵状態に耐えられず、いい加減面倒になってしまい、部屋で食べることを諦めました。
仕方ないから、エレベーターホールの前のベンチで、こっそりおやつを食べて空腹を満たすようになりました。

入院した翌日から1週間くらいは、毎日基礎代謝の検査が続きました。
寝ているだけの日や、半日本を読んだり、トイレに行ったりする日など、日によってまちまちでした。
また、ラジオアイソトープ検査や、ブドウ糖負荷試験検査など、朝空腹時にスタートし、かつ時間がかなり掛かる検査も続き、他の病気が隠れていないかを念入りに検査されていきました。
検査があると、前日の午後5時に夕飯を食べたら、翌日の検査が終わるまで、何も食べることが出来なかったから、空腹がかなり辛かったです(泣)

基礎代謝の結果が出て、説明を受けました。
ただ「寝ているだけの状態」なのに、何と1日あたり3850キロカロリー消費している状態でした。
フルマラソンの消費カロリーが2100キロカロリーと言われていたから、寝ているだけで、その1.8倍!
計算すると、寝ているだけで毎日77キロも走っている状態だった訳です。
ちょっと動くと、その分消費カロリーが増える訳ですから、そりゃどんどん痩せてしまうわな…

その日から、私の食事は「高カロリー食」になり、点滴で更にカロリーを補うことになりました。
食事の時間は本当に最悪で、食事制限させられている同室のおばさん達の視線がきつくて、本当に怖かったです。
また父とは違い、元々肉の脂身が好きでは無いのに、「脂身の多いお肉」がおかずに増えてしまい、本当に泣きそうな位辛かったです(泣)
父が定期通院で病室に寄ると、内緒で脂身を食べさせていました(笑)

点滴は点滴で、よく針が血管から外れてしまい、輸液が漏れて腫れ上がりました。
何度も針を刺すから、使える血管がどんどんなくなっていき、入院1か月経った頃から、首の血管に管を入れるようになりました。
これで輸液が漏れ出すことは無くなりましたが、管が入っている側に首を傾けることがあまり出来なくなり、寝返りがうてなくなりました。
抗甲状腺薬の方は、使う薬と、分量の試行錯誤状態が、かなり長い間続きました。

入院してからの楽しみは、家から持ってきた「ラジカセ」だけ。
毎日、朝から晩までラジオを聴いて過ごすことくらいしか、やることは無し。
たまに、誰かが読み終わった雑誌や漫画本を貰って読むくらいで、退屈で仕方ありませんでした。

入院して半月後の10月下旬に、学校では磐梯山、猪苗代湖、五色沼あたりへ行く「林間学校」がありましたが、当然参加出来ず。
同級生数人が、その時のお土産を持ってお見舞いに来てくれましたが、嬉しさ半分と、惨めさ半分で、なんとも言えない「ビミョー」な心境でした。
外の世界にいる同級生達が眩しく見えて、「刑務所に収監されている囚人さんの気持ちって、こんな感じなのかな?」って思ってしまいました。

何の変わり映えもしない、そんな日々が繰り返されていき、気が付くとあっという間に12月になっていました。
その時点で、私が入院した時に同室だったおばさん達は、全員退院されていて、私が部屋で1番の「古株」になっていました(笑)

「年内に退院できるかな?」と、少しは期待していたのですが、残念ながらクリスマスは病院で過ごし、年末年始は「外出扱い」の一時帰宅となりました。
一時帰宅の期間中だけ、首の点滴の管を抜きましたが、ずっと管が入っているような感覚が抜けず、何だか変な感じがしました。
12月28日に一時帰宅しましたが、我が家は「年中行事」の「餅つき大会」と「お節料理大会」の真っ只中だったから、誰のお迎えもなく、自力で帰宅しました。
当然ですが、家に着くなり、餅つきとお節の手伝いをさせられたことは、言うまでもありません(爆)

とりあえず、正月は家で過ごすことが出来ましたが、1月4日に再び病院に戻り、また首から管を入れる生活に逆戻りしました。
多分、無意識にかなりストレスを溜めていたのだろうと思うのですが、アトピーはどんどん悪化の一途をたどり、全身に広がっていきました。
抗ヒスタミンの注射を打ってもらったり、ステロイド軟膏を取っ替え引っ替え使ったりして、痒みと戦う日々。
その上、入院当初から使っていた抗甲状腺の薬の効きがイマイチで、薬の量を減らすと検査値が悪くなり、増やすと全身に蕁麻疹が出るという状態になってしまい…アトピーとダブルパンチ状態に陥ってしまい、主治医の先生が頭を抱えてしまいました。
結果的に、別の薬に変更することになり、そのせいで入院生活が更に1ヶ月半延びてしまいました。

変更した薬では、若干白血球が減るものの、全身に蕁麻疹が出ることは無かったし、甲状腺ホルモンの検査値が「正常値」とまではいかないけれど、かなり改善したので、3月初旬に4ヶ月ちょっとの入院生活から卒業、やっと退院させて貰うことが出来ました。

余談ですが、この「白血球が減る」という症状は、実はこの薬の副作用の始まりで、結果的に数年後に大いに悩まされる元になりました。
その詳細については、後日お話ししようと思います。

話を元に戻します。

退院した翌日、母と一緒に学校に行き、担任の先生(例のファンキーな英語の先生)と三者面談をすることになりました。
学校は既に3学期の終盤で、翌週から期末試験というタイミング。
冬休みが途中に入ったとはいえ、3ヶ月半も学校に行かなかったので、私も母も「当然留年になって、新学期の4月から復学になるだろう」と思っていました。
が、担任の先生からは、予想外のお話が飛び出てきました(驚)
「とりあえず、翌週の期末試験を受けるように」と言うではないですか!
授業に出ていないのだから、どう考えても無理な話だと思いましたが、続きを聞いていると、いくつか理由をお話ししてくれました。
もう40年も前の話ですから、暴露してしまっても大丈夫かな?と思うのですが、

要約すると…
今後、高校を卒業して、進学をするにせよ、就職するにせよ、特に女子の場合は留年の理由がどうであれ、かなりのハンデを追うことになってしまうことは否めない。
授業に出ていないのだから、試験で一発で及第点を取るのは無理だということは、重々承知しているが、まずは「期末試験を受けた」という既成事実を作ることが大切である。
 必ず追試を行うから、そこで赤点を取らなければ、進級させることを約束する。
といった感じでしょうか。

2学期半ばから3学期殆どの期間、全く学校に行っておらず、その間勉強も全くしなかった訳ですから、追試で赤点を逃れて進級しても、果たして二年生の授業についていけるのか?と、私も母も、内心困惑しました。
でも、学校側としては、私の将来を考えてくれて、このオファーを強く勧めてくれている訳です。
私は、将来薬剤師になりたいと思っていたけど、こんな状態で高校を3年で卒業したところで、大学受験が出来るとは到底思えませんでしたが、一方で、ここで留年して、一生懸命勉強して大学を受験したとしても「留年した」という事実で落とされてしまう可能性があり、就職を選んでも、入社試験で敬遠されるのは困るなぁ…と思い、翌日から学校に復帰し、1週間後の期末試験と追試を受けることに同意したのでした。

今回も、かなり長くなってしまいましたので、この続きは、次回お話ししようと思います。

〜続く

今日はここまでです。
次回は、第49話:闘病生活の始まり Part 3 に続きます。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
またお会いしましょう♪

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