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【Story of Life 私の人生】 第78話:青天の霹靂〜母の病

こんにちは、木原啓子です。
Story of Life 私の人生 
前回は、 第77話:苦渋の決断 をお送りしました。
今日は、母の病を中心としたお話をしようと思います。

前回、4年弱お付き合いした彼とは、別の人生を歩むことになったというお話をしましたが、その背景に、母の異変(病)が大きく関わっていました。
事の始まりは、母と2人で月山登山から戻った頃。
母が「痔になった」と言って、市販の軟膏や坐薬を使い始めました。
最初のうちは、大したことはないだろうと思っていたのですが…
母の家系は「高血圧」だから、当時降圧剤を服用はしていましたが、母はある意味「我が家の大黒柱」的存在で、父や私のように、入院や手術などすることはなく、少し位辛い時でも、気丈に振る舞う人。
冬に差し掛かった頃でも、症状は一向に改善することはなく、ただただ「酷い痔だ」と言い続けるので、流石に「病院に行けば?」と勧めてみましたが、頑として言うことを聞いてくれませんでした。
そんな母を見て、私は直感的に「何かがおかしい」と思いました。
そんな事も手伝って、誕生日から2ヶ月半悩みに悩んだ結果は「決して「仲良し親子」では無いけれど、私は「一人っ子」だから、親を置いて東京(関東)を離れることは出来ない」でした。
この決断は、ある意味正しかったと思うのですが、結果として「後悔」を残してしまうことになります。
また「今後は、一人で生きていく」と心に決めた瞬間でもありますが、これも後日、別の展開をすることになり、私の人生が大きく変わってしまうことになります。

年末は、例年通りの「年中行事」をこなし、年が明けて1986年になりました。
住んでいたアパートは4月が更新時期だったのですが、前の年の11月位から「更新せずに引越しする」と、心に決めていました。
なるべく費用負担が掛からない方法を模索し、色々と調べた結果、礼金や更新料が不要の「公団住宅」の入居を目指すことにし、11月から空き家募集の応募をし始めていました。
11月も1月も当選することが出来ず、3月募集の資料を貰いに行ったところ、高校から慣れ親しんだグラントハイツで大規模開発が開始していおり、3月末入居の新築案件があることを知りました。
私が高校を卒業してから出来た、完全に新しい街。
緑も多く自然豊かだし、電信柱もなく、電線は地中埋設だから、空も綺麗。
募集広告を見た瞬間「絶対にここに行くんだ!」と思い、新築募集の書類も一緒に貰って帰りました。

ただ、応募にあたり、1つ問題だったのは、私の収入。
この頃は、まだ「リハビリ中」だったので、親から補助を出してもらうという内容の「承諾書」を提出する必要がありました。
仕方がないから、意を決して両親にお願いしにいったところ、実家も大家さんから「マンションを建てるから、3月で立ち退いて欲しい」と言われたタイミングで、家を探し始めようとしていたという事が判明しました。
私が持って行った「申込書」を見た両親は、突如「うちも申し込む」と言い出しました(笑)
最初は「家賃がもったいないから、一緒に住めば?」と言われたけど、高校卒業で家を出て、ある意味「1人暮らし」を満喫していたし、毎日顔を合わせると喧嘩になり、家に険悪な雰囲気が漂う事が嫌だったから、この提案は、私が断固拒否しました。
結果的に、同じ建物に2軒申し込むことになるという、何とも奇妙なことになりました。

抽選で、両親の方はしっかり当選したのだけど、私の方は13部屋しかない単身可の2DKを申し込んだから、補欠10番(泣)
その時、同時に申し込んでいた、空き家募集の1DKが当選したのですが、家賃は5000円しか違わないのに、片方は新築の広い部屋で、片方は新築じゃない狭い部屋というのがどうしても納得いかず…
補欠当選を祈っていたら、何と1週間後に当選通知が届きました。
後から分かったのですが、家賃は周辺のアパートの相場の2倍くらいだったことで、皆さん辞退されたようで…
結局、新築応募で入居したのは、私ともう1軒だけでした(汗)
まあ価値観は人それぞれですが、私は住む家の快適さに重きを置いていたので、家賃の高さは「どうにかなる」と思っていました。
多分その信念は、今でも全く変わっていないかも知れません。

さて、3月の最終週から入居可能ということで、私の方はアパートの解約手続きを進め、引越し準備に入りました。
実家の方も、同時進行で引越し準備開始となりました。
引越しは、私の方は荷物も大して無く、実家近所の酒屋さんにお願いして軽トラックで運べる程度。
搬入や片付けは、集団会の世話人仲間達が集まってくれ、手伝ってくれました。
荷物を運び込んだ後は、手伝ってくれた友人と一緒に部屋で打ち上げをして、大いに盛り上がりました。

実家の方は、数日後に引越し屋さんにお願いして、無事に搬入完了しました。
実家は9階、我が家は7階という、まさしく「スープの冷めない距離」の生活がスタートしました。

そして私は、4月1日から社会復帰し、ソフトウエア開発会社で、プログラマーとして働き始めました。
当時の私の給料では、家賃と光熱費を払うのが精一杯だったのですが、実家は2つ上の階だから徒歩30秒くらい。
「食事は2人でも3人でも一緒だから」ということで、朝晩の食事は実家で一緒に食べることになり、また「父のお弁当を作るから、ついでに」と、母は私のお弁当も作るようになりました。
私の家には、まだ洗濯機が無かったのですが「水道代と電気代が勿体無いから」ということで、洗濯物は実家で両親の分と一緒にすることに。
お風呂も同様で、夕食後に実家で入ることになりました。

母に言わせると「無駄なお金を使うことはない!」ということだったのですが、私にすれば「おんぶに抱っこ」状態になっていることが心苦しくて…
とはいえ、母の言い分は一理あるし、また関係悪化も懲り懲り。
私にはメリットが多い申し出だから、有り難く親の言うことに従うことにさせてもらいました(汗)

朝起きて、出社の支度をしてから実家で朝食。
お弁当を持って会社へ行き、帰宅後は家に荷物を置いてから実家で夕食とお風呂。
少し話をして、自分の部屋に帰って寝るという生活が始まり、だんだんそれが「当たり前」になっていきました。
私の友人が遊びに来ると、母は喜んで食事を作ってくれ、「次はいつ来るの?」と、友人達に聞いていましたっけ。
母は、人が来ることと、料理を振る舞うことが大好きだったから、私が「同じ建物に住んで良かった」と言うようになっていました。

が、引越しが完了した後も、母の「痔」は良くなる事はなく…
4月中旬に、所沢に住んでいる叔父(母の実弟)が訪ねて来た日、母が叔父に「痔」の話をしたところ、叔父から「所沢に有名な肛門科の病院があるから、行ってみれば?」と提案され、やっと重い腰を上げた母。
5月のゴールデンウイーク直後に診察に伺ったところ、すぐに「検査入院が必要」と言われ、母にとって初めての「自分の」入院生活が始まりました。
1週間に渡る検査入院の結果、直腸癌の疑いが強いということで、防衛医大に転院することになり、再度精密検査をした結果、「末期に近い直腸癌」ということで、即座に手術することになりました。
母からすれば、完全に「青天の霹靂」状態だった訳です。
ただの「痔」だと思い込んで放置していた結果、末期に近い「癌」だったことで、あれだけ気丈な母も、この時ばかりは、かなり落ち込んでいるように見えました。

主治医の先生から「何故、もっと早く受診しなかったのか?半年早ければ、ここまで悪化しなかった」と言われてしまい…
私も「何故もっと早いうちに、強く受診を勧めなかったのか」と、かなり後悔しました。

母の入院中は、実家で父と私の朝食とお弁当を作り、夕食は、私の方が帰りが遅いこともあり、朝食を作るときに準備しておいて、父が帰ったら電子レンジで温めて食べられるようにしておきました。
帰宅後に実家に行き、掃除と洗濯。
自分の夕食を食べて、お風呂に入って帰る生活にシフトしていきました。
手術の日が決まり、私は会社に事情を説明して、2日間のお休みをもらうことにしました。
まだ試用期間中で、しかも新しいプログラミング言語を勉強している状態で、まだ外部に出向するレベルには達していなかったこともあり、給料は欠勤控除で引かれましたが、会社やお客様に迷惑が掛からなかったことは不幸中の幸いでした。

朝8時に手術室に入り、終わったのは夕方5時過ぎ。
可能な限り、癌組織を取り除く必要があり、結果として人工肛門をつけることになってしまいました。

手術後、主治医の先生からホルマリンの瓶に入った直腸と肛門を見せて貰いましたが、見るからに「酷い癌」だと分かるくらい真っ黒でグチャグチャな状態。
とてもグロテスクで、父も叔父夫妻も、とても驚いていました。
この日から、母の癌闘病生活が始まったのですが、母の「豹変ぶり」に翻弄される日々の始まりでもありました。
この続きは、次回お話ししようと思います。

〜続く

今日はここまでです。
次回は、第79話:まさかの結婚 に続きます。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
またお会いしましょう♪

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