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【Story of Life 私の人生】 第74話:退院 〜 再起の時

こんにちは、木原啓子です。
Story of Life 私の人生 
前回は、 第73話:手術 〜 暗黒時代の終焉 Part 2 をお送りしました。
今日からは、手術後の20代の私についてのお話ししようと思います。
手術をきっかけにして、3年間の暗黒時代から解放され心機一転、ここから私の人生は再スタートを切りました。
まずは、退院直後のお話をしようと思います。

手術から1週間経った2月1日、晴れて退院の日を迎えました。
まだ、起き上がる時の首の痛みや、飲み込む時の痛みからは解放されていませんでしたが、こんなに早く家に帰ることが出来て嬉しかったです。
大袈裟かも知れませんが「新しい命をもらった」気分で、人生バラ色でした。
今までの苦難は、手術というリセットボタンによって初期化され、新たな人生のスタートを切ったんだなぁと思うと、嬉し涙が出てきた事を覚えています。
余談ですが、お陰様で、あの日から今日まで37年の間、全く入院をすることなく過ごしています。
本当に有難いことです!

話を元に戻します。
退院して、まずは自分のアパートに戻り、病院から持ち帰った荷物を片付けました。
それが終わってから実家に行き、1週間程度療養することにしました。
実家には自転車で帰ったのですが「今まで一体何だったんだろう?」と思う位坂道でも息切れすることは全くなく、自分でも驚くほど身体が楽で、身体の変化を目の当たりにした感じでした。
その日の夕飯は、私の「遺言」を覚えていてくれたらしく「アンコウ鍋」でした(笑)
手術前日の「空腹で恨めしい気持ち」と「アンコウ先生」の顔が蘇りましたが、家族で鍋を囲んでいるうちに、そんな気分もすっかり消えて無くなっていました。
ただ、食べられる量は今までの半分以下になっていて、母から「もっと食べて良いんだよ」と言われても食べられず(汗)
やっと「普通の人」になったんだなぁと実感しました。
それでも、他の女性に比べたら、まだまだ「大食い」だったと思います(笑)

翌日は土曜日、午前中に社会保険事務所に行きました。
傷病手当申請と任意継続について、仕組みや手続き方法を詳しく説明をしていただき、書類を貰って来ました。
どちらも、トラブルが起こらなかったら全く知らなかった制度です。
傷病手当を貰う=病気で就業不能になるから、職安で失業保険は貰えない(二重の支給はない)ということも、詳しく説明してもらいました。
手術して元気になったとはいえ、実際に社会復帰出来るまでどの程度掛かるのかは、この時点では見えていませんでしたから、社会保障に関する制度について学ぶ事ができた事を有り難く思いました。

2月3日は日曜日で節分の日。
母は、毎年節分の日に「川崎大師」の星まつり祈願・節分会に行くことを慣わしにしていたのですが、この年は「一緒に行って、お礼参りをしよう」ということになり、久しぶりに2人で出掛けました。
子供の頃は、母に連れられてよくお参りに行っていましたが、本当に何年ぶりだっただろうか?
家からバスと電車を乗り継いで、川崎大師にはお昼過ぎに到着。
まずは、山門前の住吉さんで、久寿餅と甘酒を頂き腹ごしらえしてから、星まつりの御祈願に参列しました。

今まで、本当に色々なことがあったけれど、産んでくれてここまで育ててくれた両親に対する感謝、執刀してくれた先生や、サポートして下さった麻酔科の先生方、看護婦さん達への感謝、これまで私に関わってきた方々への感謝、そして今「生きてここにいる」ことに対する感謝でいっぱいになり、涙でいっぱいになりました。そして「生かされてここにいる意味」について、少し考えるきっかけになりました。

御祈願の後の豆まきで福豆をいただき、お札とお守りを授与してもらいました。
国家試験と就活を控えている彼についても「全てが上手く行きますように」とお祈りして、お守りを授与していただきました。
帰りに門前の「飴切り」で有名な飴屋さんで咳止め飴を買い、住吉さんで久寿餅をお土産に買って帰宅しました。

川崎大師に行った2日後は、術後最初の定期通院の日でした。
傷の確認と、血液検査で甲状腺ホルモン値や白血球の状態を確認してもらいました。
甲状腺ホルモン値は、主治医の先生の想定よりもかなり低い状態でしたが、まだ術後1週間ちょっとだから、暫く様子を見ようかということになりました。
白血球の方は、正常値の下限にもう少しで届くところまで回復していました。
これで「無顆粒球症」とは完全に縁が切れるんだと思うと、本当に嬉しくて、またまた泣けて来ました。

その後数日の間は実家にいましたが、父の「ジャイアンリサイタル」にも、いい加減耐えられなくなってきたし、そもそも自分の居所がない我が家の窮屈さが辛くなって来たので、1週間経ったところで、自分のアパートに引き上げました。
とはいえ、学校や仕事がある訳でもなく、特に何かやる事があるわけでもないから、時間だけ「たっぷりある」状態な訳です。
となると、栄養専門学校を辞めた時と似たような状態になり、自分の将来に対してずーっと考えるようになりました。
「この先、どうすれば良いのだろうか?」「何をすれば良いのだろうか?」と、自問自答の日々が続き、不安だけが膨らんで行きました。
まだ2月中旬だったし、無顆粒球症の心配もほぼ無くなったから、臨床検査技師専門学校の編入を考え、再度挑戦しようかと真面目に考えてみました。
履修証明ももらっているし、これは良い案だと思って、都内の専門学校に問い合わせをしてみたのですが…
結果として「私の履修証明学科と、その学校の履修スケジュールが噛み合わない」という理由で、仮に編入したとしても「2年生からやり直し」がやっと。
学校によっては、1年生からやり直しするしかない言われました。
ということは、折角2年間勉強して、履修証明があるにもかかわらず、一度履修した学科の殆どについて「再度やり直し」するしか方法が無いということになります。
また、どこも私立の学校だったから授業料はとても高くて…
2年分の時間的ロスも痛かったけれど、栄養学校で迷惑を掛けたから、もう学費については親に頼ることだけはしたくなかったし、自力で2年分の学費を払うだけの余裕は無くて。
本当に残念だったけど、この案は「諦めるしかないな」という結論を出しました。

将来について考えがまとまらず、ただただ悶々としていた日々が続いていたある日、家の近所の銭湯に行ったところ、私のアトピーを見た女性(多分30代位の方)から、突然「うわ!これ(アトピーの事)、変な疫病じゃないの?感染ると嫌だから、こっちに来ないでくれる?」って、大声で言われてしまいました。

こんな言葉を掛けられたのは、小学校で転校して「いじめ」に遭っていた時以来!
まさしく晴天の霹靂、放心状態で、正直なところショックで泣きそうになりました。
心が完全に折れてしまい、湯船に浸かることも憚られ、シャワーで頭と身体を洗っただけで、逃げるように家に帰りました。
家に帰ってからずっと「もしかしたら、私は自分が全く気づいていなかっただけで、今までもずっと他の人からそんな目で見られていたのではないか?」と思うようになり、他人がどう思っているのかということばかりが常に気になり、頭から離れなくなっていきました。
その日を境に、近所の買い物に出て、人に接することがとても怖くなっていき、対人恐怖の症状がどんどん酷くなっていきました。

今までは「病気」で苦しかったけれど、それはリセットされてスッキリした筈だったのに、全く違う事で悩むことになるとは…
ここから暫くの間、どうにもならない「ジレンマ」に悩まされ、別の意味での「試行錯誤の日々」が始まったのでした。

〜続く

今日はここまでです。
次回は、第75話:対人恐怖との葛藤 に続きます。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
またお会いしましょう♪

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