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私のことー記憶をたどる

去年、桜を巡るエピソードを募集していると知って、大学院通学途中で見てた八幡交番の桜の木を思い出した。

立派な一本の大木で、傘を開くように横に広がった桜の木が、交番の屋根のようで。ジブリの世界に出てくるような桜だった。大学院の修了式は9月だったので、もう何年も見ていない。まだあるだろうか。気になって応募してみた。

私にとって、あの桜の木は特別だった。


ハタチの誕生日、摂食障害を診断された。当時、34キロだった。いくつかの病院を巡って、やっと診断されたのが、たまたま誕生日だった。

「今日、誕生日なんですね。おめでとう。」

看護師さんのその言葉に、なんだかほっとした。彼女がクリニックの紹介をしてくれ、治療を受けることができた。

それまでに10件近くの病院を回ったけれど、現実と対峙する苦しみを感じながらカルテを書き込んで、でも、カルテをちゃんと見られず、ただ食べてくださいとしか言われないでいた。その看護師さんと出会った病院は、カルテを見て、「摂食障害ですね」と病名を言ってくれた。そして看護師さんは、このクリニックのおばあちゃん先生は、いいですよ、と紹介してくれたのだった。

家庭環境や部活、当時のきっと今でいうデートDV的なもの、そういったものが積み重なっていたのだと思う。あと、よく言われる、完璧主義。今思うと、定規がないと線が引けないくらい、几帳面だった。

気づいたら、食べれなくなっていた。骨と皮だけだった。

紹介されたおばあちゃん先生は、食べれるものを食べたらいい、という人で、眠れないと話したときは、養命酒を飲んだらいいわよ~なんて笑って言った。そんなチャーミングな先生だった。

決して、だれも責めない先生だった。初診日、先生と母が話をして、そのあとの母の目は真っ赤だったことは覚えている。どんな話をしたのか、私は聞いていないし、いまでも知らない。でも、そのとき、先生は母を責めなかったと思う。この病気は、よく母親の責任を問うから。実際に、そのあとに通った別のカウンセリングで、そう言われ、母は悪くないと思っていた私は耐えられず、行くのをやめた。

おばあちゃん先生の理解と、母親と弟がサポートしてくれ、大学には通い続けた。条件は、部活を止め、階段など運動はせず、授業を受けて帰ること。当時所属していた体育会弓道部をやめた。すでに、8キロの弓さえ、引けなくなっていた。

母は毎朝、小さな一口サイズのトーストをひとつ、ジャムを塗って用意してくれた。お弁当には、一口サイズのおにぎりとおかず少し。友だちとご飯を一緒に食べることはできなかったけど、仲良かった友人たちは、特別扱いすることなく、ただ一緒に見守ってくれていた。

おばあちゃん先生の病院には、定期的に通った。通院前、いつもジェラート屋さんでジェラートを食べてから、通っていた。

2月、スペインに1ヵ月、短期留学した。まともに食べれないので共同生活はちょっと難しく、残り1週間で栄養失調で緊急帰国をした。そのとき、親身にサポートしてくださった当時の学長や大学関係者の方々には心から感謝している。今思えば、すごくそういう社会ケアをしっかりしていた大学で、春の健康診断では問診を丁寧にしてくれ、お昼時間の居場所に困ればいつでもきていいとおっしゃってくれた言葉に甘えて、一時健康管理センターに通って、母が作ってくれた小さなお弁当を食べていた。

2017年12月は、大学のゼミでシリアに渡航した。シリア人の友人に、ちゃんと食べなきゃだめだよ、って言われたのは覚えている。当時の日記を見ると、怖いといいつつ、食べれるものは食べていたようだ。ちなみに、この時のシリア渡航は中東地域での人道支援に携わりたいという意思のきっかけになった。

こういうことをした、という記憶はある。けれど、栄養失調状態だったから、日常的な生活に関しては、はっきりとした記憶がない。断片的に覚えているのは、闘病中の精神不安定な自分のこと。ひたすらこうなった自分を許せなかったから。死にたくて、一度だけ手首を切った。母は、はじめて私をひっぱたいた。私が病気になって、彼女自身も自分を責めていた。それがとても悲しくて、辛くて、申し訳なかった。自分が、ただただ、許せなかった。

それでも母は、献身的に支えてくれた。

コブクロが好きな母は、外に出れない私を、コブクロのコンサートに連れ出してくれた。当時未発売だった「風見鶏」は、苦しいことがあるといまでも必ず聞いている。

時々過食し、吐けない私はひたすらパニックになった。母が付き添い、落ち着かせてくれた。ケーキを複数個食べた時は、一緒に付き合ってくれた。大学を休んでもいいと言ってくれたけど、私は通い続けた。勉強が、好きだった。

2年間かけて、体重は10キロ以上増えた。時々アームカットはあって、4年生の教育実習時はプレッシャーで、左腕は傷だらけだった。浅かったので、痕は残っていないけれど。体力も回復し、無事に大学を卒業した。

友人たち、そして健康診断で異常を把握した保健センターのスタッフさんが、居場所を作ってくれたおかげだった。スペイン短期留学中、体調不良で緊急帰国したとき、大学側も精いっぱい支えてくださった。友人にも大学にも、ひじょうに恵まれていた。

その後、兼ねてより希望していた進学をした。ひとりぐらし。母は凄く不安だったと思うけれど、仲間に恵まれ、楽しくやっていた。

けれど一度だけ苦しくなって、「死にたい」と呟いた。大学時代の友人の一人が、電話をくれて、泣きじゃくる私が落ち着くまでずっと話してくれていた。今年、やっとお礼を伝えることができた。

修士1年の夏休み。アフリカ行った後に、燃え尽きみたいな脱力感があったのか、たったひとつのお菓子を食べたことで、今度は過食症になった。吐くことができず、あっという間に体重は増えた。72キロ。

同時に、アームカット増え、眠れなくなり、自ら大学の保健センターに通うことにした。どうしても、自分で病気を治したかった。

担当医とカウンセラーとの相性が合い、その後博士進学しても通うことになる。担当医は、パニックで泣きじゃくる私が来ても、まずは何も言わず、待ってくれた。事実をただ記録し、処方する、その距離感がちょうどよかった。

抑うつ感と不眠、加えて、身体がバラバラに感じる乖離の症状が酷かった。自分の体が自分のものでないように感じてしまうので、腕を切って痛みを感じるしか、生きてる感覚を得ることができなかった。だから、真夏でも長袖を着ていた。浅かったので、傷痕はひとつも残っていない。

自分を客観的に見ることには、長けているらしく、それがカウンセリングではいい効果に働いた。少しずつ、自分の症状を受け入れることが、できるようになったから。

毎日朝が来ることが怖くて、眠れない。けれど朝は来る。そういうとき、春の日差しの中で満開だった八幡交番の桜は、すごくすごく癒しだった。優しく包んでくれるような。とりあえず、今日も頑張ろうと。そう感じることができた。夏の、青々とした緑の葉っぱも。色づいた秋の葉っぱも。寂しい冬も、その姿がなんだか心強かった。

眠れずにいるので、夕方の授業は特に、眠くてしょうがなかった。その異常さに気づいた研究科の先生がいて、さりげなく声をかけてくださったんだと思う。定期的に、無理しないように、頑張りすぎないように、と声をかけてくださった。自分を大切にしなさい、と。いまでも、時々やりとりし、気にかけてくださっている。

修士在学中、テレビの音が聞こえにくいことに気づいた。耳鼻咽喉科で診断されたのは、低音型突発性難聴だった。あと1週間遅れていたら、聴力を失っていただろうと言われた。世界が暗くなる、閉ざされる恐怖を感じた。

修士を終えて、博士に進学をした春。結婚を前提とした縁に出会ったことを、桜の木の下で母に伝えた。すごく喜んでくれていた。それから、海外に拠点を移すことになり、主治医に最後の診察時にお礼を伝えた。

「がんばってください」

最初で最後、主治医が、私の目をまっすぐ見て、言ってくれた言葉だった。大きな、励みだった。

その後、1年7ヵ月の結婚生活を終えた。26才のとき。1人になり、それから自分の中で何かが吹っ切れた。増えた体重も戻り、食事も比較的安定し、少しずつ、自分自身とようやく向き合えるようになった。お肉だけは、いまだに食べれない。日本に帰国する前まで、アフリカで少しお肉を食べる練習はしていたけれど。

離婚後、ひとりで研究のためアフリカに戻り、ドイツ人マダムと2人暮らしをはじめた。彼女は日本の桜が、すごく好きだった。春にドイツに戻れば、ドイツにある桜の写真を、必ず送ってくれた。イースターやクリスマスになると、彼女の娘のように毎年プレゼントをくれた。いまでも大好きな、私の母であり友人である。結婚生活よりも、貴女との生活のほうが長いというと、彼女はすごく喜んでいた。同業者である彼女との、現場での再会は、まだ叶っていない。


就職して、実家生活1年後、ひとり暮らしをはじめた。近くの公園には、見事な桜並木がある。春になって、桜に関するエピソードを募集しているというお知らせを知った。儚く散る桜が、すごく好きで、それを眺めながら自分にとってはどの桜かなぁと思い出したのが、八幡交番の桜だった。それで、もう一度見たいと思い、応募した。


当時、海外出張中なので、ネット電話で話をさせてもらい、その桜の木がなくなったことを教えていただいた。残念だったけれど、私の想いだけは、記事に載せてくださった。記事にしていただく中で、何度もこちらのわがままを聞いてくださり、本当に申し訳なさと感謝しかない。

2019年に、改めて桜の木はなくなってしまったことを、自分の目で見た。これで良かったのかもしれないと思った。過去にとらわれず、前を向いて進まなくてはと、感じたのだ。


ずっと、病気になった自分が許せなかった。それは今でも、心の片隅にある。それでも、少しずつ強みに変えていかなくてはと思う。諦めずに、強く生きなくては、と。


病気になって、良かったと思っている。

今思えば、大学生ぐらいから家庭環境がちょっと嵐で、そのころから、怒りをいう感情がなくなった。怒りは自分勝手なもの、周りが悲しくなると思っていたからか、今でも怒りの感情を抱くことはない。加えて、自分に対する評価が、ゼロか100だからか、苦手だなと思う人と出会うと、なぜそう思うのか、どうやったらお互いベターに付き合えるか、素敵なところや羨ましいところ、どう行動すれば不快にさせないだろうか、とか考えるようになった。苦手なところは、私にない、良さかもしれない。学ぶものもあるはず、と。そこは、私の忍耐強さ、打たれ強さに繋がった。

相手のいいところに気づけたほうが、楽しいし、自分も学べ、強くなる。

相手の表情や言葉、声に敏感になった。高校生の時、親友が、表情を理由にいじめにあったと話をしてくれた。彼女を守る、そして笑顔だからと言って、苦しくない・悲しくないと一方的に判断しないと決めた。普通に接していた友人のなかで、虐待や家庭環境が複雑だった子が何人かいたことを知ったからというのもある。また、鬱表情で、感情という感情がなくなり、能面のように過ごしていた経験からも。それから、人を印象や表だけで判断せず、内面をしっかり知ろうとしよう、気にかけようとするようにしている。

誰かの、心のよりどころになれるように。

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