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私は私で良かったよ

2023年のお盆は台風が直撃し、晴れていたかと思えばザーザー降りの雨となったり

とにかく気性の激しい、まるで私の母のような天気だった。

そんな気性の激しい私の母が、お盆休みに突入したばかりの8月12日に亡くなった。

先日、愛犬こすもが亡くなったとお知らせしたばかりだったにもかかわらず

不幸と言うものは続くものなのだな、と思った。

お腹が痛いので検査入院をする、と聞いたのは7月の頭だったと思う。

何度か別な病気で入退院はしていたので、いつもの塩梅ですぐに退院してくるだろうと思っていたのだが

入院後検査して発覚したのは胃癌の疑いだった。

また、リンパの病気の疑いもあり、さらに検査を続けるとのことを実家にいる父と姉から聞かされた。

それでも医学は進歩していると思っていたので深刻には考えていなかったのだが

検査からさらに一週間、自体は深刻だということが明るみになる。

胃癌は確実となり広範囲に、また転移もあり施しようがないと伝えられた。

今後は緩和ケアという形でしばらく入院するとのことだった。

それでも私は母と何度か面会ができると思っていた。

初めて面会に行った時は、ちょうどこすもが亡くなったばかりの時で車椅子に座り少し弱っていたような感じもありつつも

こすものことを伝えて、これまでのことを感謝すると、私の言葉をしっかり受け止めてくれ、思いも少し話してくれていた。

そして数日後にまた面会に行った時には、もう車椅子では居られなくなりベッドに横たわり、苦しそうにうめいていた。

それでも言っていることはわかっていて、生返事ではあったが応えてくれていた。

得体の知れない恐怖があったのか、終始「おっかない(怖い)」と言っていたのが印象的だった。

この時点でこんなに急激に容体が悪くなっていくなんて信じられなかった。

さらに数日経ち、当日。

急に朝方父から電話があり母の容体が急変していると言われた。

オットにも伝えて、一緒に病院へ行ってもらうことになった。

解熱剤を投与しても、熱が下がらないと言われ、うなされている母に触れるとかなり熱かった。

苦しそうな母の顔は、母のようで母ではない知らない誰かのような気がした。

ちょうど父と姉が一旦帰宅してまた戻ってくるということで、私とオットが看ていた時に心拍数が下がっていき、

アラーム音を聞いて看護師さんが来てくださり、最後の時が迫っていることを告げられた。

どうにか父と姉が来るまで待っていて欲しくて、ずっと声をかけていた。

看護師さんに意識はないですよね?と聞いてみると、そうかも知れないけれど、声をかけると聞こえていると思いますよと言ってくださったので

ずっとずっと「お母さん」と呼びかけていた。

そうすると閉じていた目が開いて、どこを見ているかわからなかったけれど、そのうち私と目が合った気がした。

目が合うと、それが最後なんだと気づいた。

お母さん、ありがとうね、お母さん、苦労かけてごめんね、とずっと繰り返していたと思う。

この時、自分が自分を保っていられたのはオットがそばにいてくれていたからだと思う。

後からオットに、声をかけ続けてあげられたからお母さんも安心していけたんだと思うよって言ってくれたのが救いだった。

結局、息を引き取った後で父が到着してその後姉が遅れてきた。

私は一番母を困らせていた娘だが、最後を看取ることになってしまったのが、少し申し訳ないと感じた。

私は小学生の頃から登校拒否をしていて、当時はそういった児童に対してのケアなどが確立されていなかったせいで両親には大変な苦労をかけた。

特に母には毎日毎日学校に行きたくない私と言い合いをして、精神的に参らせてしまっていたと思う。

母は前途の通り、大変気性の激しい人だったので、うまく行かないことに対して本当によくヒステリックに怒鳴っていた。

思い通りにならない娘の私をいつしか毛嫌いするようになっていた。

大きくなっても私は思い通りにならないままオットと付き合っていた中で、母と口論。

「あんたなんて昔から大嫌いだったのよ」と売り言葉に買い言葉ではあったとは思うが、

そんな悲しい言葉を言われて父が言い過ぎだよと嗜めたこともあった。

正直言って、この言葉はずっとずっと私の心を傷つけたままだった。

これは母の性格のせいで飛び出した言葉だったと納得したとて、だ。

私は母のようにはならない、なりたくないとずっと思っていた。

しかしながら、どうやっても血が繋がった母子である。

歳をとるに連れて他人から見ればかなり似ていると思うだろうし、ここ最近は母に似ているなと自覚することもある。

母の影響で好きになったことがたくさんある。

バラの花、コーヒー、紅茶、美味しい食べ物、デパート、ハリオのガラス食器…などなど

その全てが自分の中に息づいていて、今後も好きで楽しんでいくことだろう。

母は私が嫌いだったかも知れない。我が子であっても好きじゃない子もいると聞くし、それは理解できる。

そんな私だったとしても私は私で良かったよと、母に伝えたいと思う。

それは母が産んだ人間で、母の愛でてきた物を素直に好きと言える私なのだ。

そのレガシーは私が死ぬまで続いていくと思う。

最後の瞬間、母は私のことを見て泣きそうな顔をして言葉を聞いていたように見えた。

遺族のただの妄想だったかも知れないが、そう感じた。

母を看取り、母の死に納得できた。

明日、8月17日にお通夜、翌18日にお葬式を行うことになった。

今日は母の好きだったお店のマフィンと好きなバラの紅茶を買ってきて、お先に母を想いながらいただくこととした。

出棺の時に一緒に持っていってもらえるように準備もした。

もう少し、母を想う日が続きそうである。


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