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2回目の『夏の砂の上』〜ポストトークを経て~

ポストトークのある2022.11.11、圭の日でもあるこの日、私は2回目の観劇をした。
この日はある数式、いや、算数か、が浮かんだ。

3-1-1+1-1=1

3人暮らしから息子を失い、妻が出て行き、1人になった治さん。
そこに共同生活をすることになった姪の優子。
やっと2人の時間ができた。
ところが結局最後、また優子は旅立ってしまう。
結局治さんは1人になってしまった。
そう考えるとこの算数のような式が浮かんだ。

両端を除いた、『+』を中心とするシンメトリーのような『1-1』。
だからこそ、最初の『3』と『1』があまりにも大きな違いに感じる。

3人家族の時の治さんが、もうなんだかわからなくなったという心境になる最後。
現実逃避したくなったようにも感じるくらい、息子の死から始まる一連の出来事は治さんの中で心を蝕んで行ったのだろう。
息子の死を受け入れ切れなかったのもあるだろう。
それはお供えが埃だらけということからも感じた。

人は向き合いたくないものから目をそらす。
仏壇の位牌の前に座れば、息子が亡くなったという事実に向き合わなくてはならない。
だから治さんはお供えをあげられなかったのではないか。

とはいえ、位牌を恵子に持っていかれるのは拒む。
それはそうだろう。
夫婦二人で見守るのならまだしも、恵子は元同僚の元へと走っている。
そんな恵子に息子は預けられない。
治さんの心の葛藤が浮かぶ。
亡くなったことを認めたくない治さん。
位牌という死を意味するものを手離したくない治さん。
事実に向き合い難いが事実は変わらない。
だからこそ、息子の存在を意味する位牌だけは手離したくないなかったのだろう。

そういえば、優子の旅立ち、初日の私は死地への旅立ちに感じたが、ポストトークを聞くと必ずしもそうとも取れなかった。
ただ、詳細を書かない松田氏。語らない松田氏。
行間のあるあの戯曲、受け取り方は読み手次第。
正解はないのかもしれない。各自が感じたもの、それが答えなのだろう。

時の流れ

時の流れはスクリーンによる視覚と、セミの鳴き声による聴覚で表されていた。

2回目で気づいた。
アブラゼミから始まったセミの鳴き声。途中ヒグラシが鳴く。
それが阿佐子が最後の挨拶に来た時にまたアブラゼミに変わった。
ひと夏の出来事だと思っていた初回。
優子と暮らした期間はそれ以上だったのだろうか?

そう考えると、あの最後のなんとも言えない治さんの顔が、1+1=2になっていた、あの、雨水を飲んで乾きを潤した治さんの生活、慣れてきたであろう2人の生活にまた孤独の波が押し寄せてきてしまった治さんにとって優子との別れは、孤独感よりも諦観よりも絶望に近いものがあったのかもしれない。

役者 田中圭の生み出す世界

私は観劇後に戯曲を読んだ。
戯曲だから当然会話とト書で書かれていた。
それを読んでいて違和感を覚えた。

あれ?戯曲の治さん、早口に感じる。

舞台ではあんなにゆっくり、それこそ間をとって話していた治さん。

それについて松田氏はポストトークにて、「この戯曲がこんなに大きなところで成功してるのは俳優さんの力が大きい」と話していた。
「田中さんのスピードに驚いた、だから成功してる」、と。

なるほど、そういうことなのか、と思った。
確かに私が感じた戯曲のテンポ感だと、あの自分の人生に諦めた、息を潜めて生きているような治さんの人物像、雨水を飲んだ時の笑顔でさらに感じたこれまでの枯渇感とこれからの生命力。
こうした治さんは、役者 田中圭と演出 栗山民也が作り上げた世界でなければ表現できなかっただろう。

田中圭という役者を応援する身としては、松田氏に役者 田中圭を褒めてもらえて嬉しい瞬間でもあった。

松田氏はパンフでこう書いている。

治の妻、恵子が窓の外の港の景色を見て、いかにそこが荒廃していたかに気づく場面がある。彼女はそこで何を見てきたのか。荒廃はいつの間にかすすみ、取り返しがつかない。人生はそのように取り返しのつかないことの繰り返しで、そののとにあらためて気がつき、自らの迂闊さに驚くのだ。
パンフレット『夏の砂の上』
『方言のこと 松田正隆』より引用

確かに人生は後戻りできない。
どんなに悔いのある過去がそこにあったとしても、その時のことを振り返ることはできても、そこに戻ってやり直せるわけではない。一生は一度。進むしかない。
家を出て行った恵子がふと見た景色は治さんにとって毎日見ている景色だ。

治さんのセリフに息子は本当に死んだのかと問いかけるシーンがある。
息子の死はそれほどまでに受け入れ難く、そこから治さんの時計の針は止まってしまったのではないか。

その時計の針を動かしたのが優子でもあった。
そこに「生活の営み」が生まれた。

その優子もまたいなくなってしまった。
生まれ変わりそうだった治さんにとっての喪失感はさらに深くなったのではないか。
それがあの麦わら帽子を被せられた時の、なんとも言えない虚無感漂う表情に見て取れた。
と、私は感じた。

どこまで進めば治さんの人生に花咲くことがあるかは分からない。誰にもわからない。治さんにも。それが人生というものだから。

『夏の砂の上』。砂とは…

この砂が海辺の砂であれば楽しくもあり、水平線に浮かぶ朝日に希望をもらえることだろう。
だがきっと、治さんの場合は砂漠のそれだろう。
オアシスまでも遠い砂漠だろう。
そのオアシスを求めることも今の治さんではしないだろう。

なんて物悲しい人生なのか。

今後の治さんにとって、幸ある人生を希望して止まない。

番外編 タナカー的見方

書かずにはいられない圭くん要素!
初日は圭くんが表したいものを汲み取るべく、表情を掴むよう双眼鏡を覗いた。
お陰で、あ、今回瞬きが多いな、とかわかった。

だから今回は体を覗いた。
あ!肌荒れが首から左顎に移動してる!
足の裏の綺麗なことっ!!
足の親指のちっちゃくてかわいいことっ!!
腕の血管!!
綺麗な指!!
いつもの如くちゃんと切れてる指の爪!!

そうしたらなんと、相方に私が何を見てるかがバレていた!!双眼鏡の動きでわかった、と。
誤算!!w
ま、いいんだけど。

最後に、おパンツは、初日より増えていた!w

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