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『夏の砂の上』〜五感から考察する舞台と戯曲〜

なんだかここのところこの舞台のnoteばかり書いている。
それほどまでにいろいろなことを考えさせられる戯曲であり、舞台だ。
明日の観劇に備えているのか、という程色々考えてしまう。

今回は違う視点から書いてみたくなった。
役者 田中圭のお芝居に触れるわけではない。
何しろ、今日は観劇していない。

ただ、この舞台、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、五感全てが散りばめられていることに気づいたから書きたくなったのだ。

以下、戯曲と舞台、そこから見える景色を眺めてみる。

視覚

まず注目したいのは、恵子が錆び付いたドッグのことを語るシーン。恵子にこの景色を見せることで、観客にもこの街の景色を脳裏に焼き付ける。
戯曲を読んでない人には街の情景を植え付け、読んだ人には改めて思い出させる。
「嫌な街」という優子の言葉が被さることで、この街の枯れ具合が増殖する。
舞台上で観客には見えない景色。
それを見せている部分だ。

この錆び付いた色はスクリーンに映し出されるオレンジ色に似ている。

このお話の舞台は夏の盛りの長崎。
暑くて暑くて水も出なくなるほど雨も降らない、そんな夏のお話。

夏といえば、照り付ける太陽。
眩しいほどの。
そして青空に入道雲。
そんなイメージ。

だがこの舞台にあるスクリーンに映し出される色はオレンジがメインとはいえ、決して明るくはない。

オレンジと言えばビタミンカラーと言われるように、元気になるような色だ。
だがこの舞台を映し出すオレンジ色は、まるで、そう、鉄錆のような色に見える。
正に恵子の言っていた街並みだ。

そしてそんな日がずっと続く。
たまに朝のような日もあるし、夜はスクリーンが閉じられる。
だが、メインはこの鉄錆のようなオレンジ色。

ここにまずほの暗さがある。
まるで治さんの心情のようだ。

ところが、逆に優子の時は昼下がりの陽光が眩しかったり、かけた鏡台の鏡で光を集めたり、優子のシーンは―たいてい立山といるが―明るい。
最初に遠慮がちだった優子がこの治さんの家に、治さんとの生活に慣れてきたからだろう。本来の優子になったのだ。

そんな優子もまたオレンジ色の話をする。
目覚めも眠りの中でもトンネルの中で、オレンジ色の光が続いていると話す。
昔のトンネルの中は排ガスの煙が充満していたから、煙の中でも見えやすいオレンジ色で、かつ効率が良いナトリウムランプが使われていたと書かれていた。
排ガスの充満するトンネルのオレンジ。
息苦しさを覚える。
優子はずっとトンネルの中にいる。中学でも友達は1人だった。だからこそ、このほの暗いトンネルの中のオレンジなのだろう。やはりここにもオレンジ色が出てくるが、その色の持つイメージからはかけ離れている。

次に注目したいのは、持田のお葬式に治さんが行こうとするシーン。
ここで治さんは余りに急なことに慌てて間違えてしまう。
ネクタイを「白」に。
それを舞台で初めて気づくのは優子。

だが戯曲には優子が指を指すというト書はない。陣野の妻の訪問を治さんに告げているのに、だ。
あるのは、立山がネクタイの色を指摘するセリフのみ。
だが舞台ではまず優子に指摘させている。より流れがスムーズになっている。

なぜなら、陣野の妻を迎えた優子が戻ってきて治にそれを告げるなら、当然優子の目に最初に飛び込んでくるのは、お葬式に似つかわしくない真っ白なネクタイだと思うからだ。
だからこそネクタイが違うと言うように無言で指を指す。その一連の流れから気づく立山。そして治さんに指摘する。
こうした流れの二重構造にすることで、より「白」という色が際立っていた。

「白」。
これはこの薄暗い部屋の中で眩しいほどに白かった。
結婚式とお葬式。
ハレの日とケの日。
まるで正反対だ。

この物語の最後、家を出た恵子が陣野と一緒に旅立つ明るい未来がある妻であるのに対し、指を3本失くしせっかくありつけた職も失くし明るい未来がひとつも無い治さんとの対比のようにも取れる。

そしてもうひとつ戯曲と違うところ。
戯曲ではネクタイの柄は白黒の縞になっている。
それが舞台では真っ白だった。
ここに舞台ならではの視覚効果があらわらていると思った。
戯曲通り白黒の縞であれば、舞台ではあんなにも映えなかっただろう。

百聞は一見にしかずという。
人はまず物を視覚で捉える。
白にすることで観客にも間違いが気づきやすく、優子がまずすぐに気づくのが自然な流れになる。

この「白」は―優子にの包帯を覗いて―最後にも登場する。

それがあの失くした指を巻く包帯だ。
そこに射し込む光。
「白」い包帯が眩しく映し出される。
からの暗転。
ここでも視覚的効果が表されているように思う。

治さんの人生、明るいことが無い人生、そこに射し込む光によって照らされる白い包帯。
明るいシーンからの暗転によって、その眩しい程の「白」が観客には残像として残る。
但し、暗転になることで治さんに明るい未来をシャットアウトしたようになる。
戯曲の通りだが、メリハリのある照明によって、より印象づける最後だった。

聴覚

ここはまず、役者 田中圭の声だろう。
あんなに静かに話す治さん。
だか、その喋りが、あの声が、あの舞台を成立させている。
静かな声で、静かな空間で、治さんの声は響く。
物理的にも、私たち観客の心の中にも。
そしてあのセリフ量の少なさ!
それでも感情は伝わってくる。
それは栗山さんが目指したところの、背中で語る演技があればこそ、なんだが。今回は珍しく瞬きが多いところもある。身体全部を使って、雰囲気で、その役を生きるお芝居が大好きな私にとって、この治さんという人は、きっとやり甲斐があるだろうし、私も観るのが毎回楽しみだ。
本当になんという役者を好きになってしまったんだ!!!

そしでもうひとつ。なんと言ってもセミの鳴き声だ。
ひっそりと成り行きにまかせて受動的に生きている治さん。
それに対して、あのセミたちはなんて生命力に溢れているんだろう。
ここの対比が面白い。
前にも書いたが、抜け殻のような治さんと必死に生きた証を残すかのように鳴き続けるセミ。
ここにいるんだと言わんばかりに鳴くセミ。
治さんとは全く違う。
面白いと思う。

もう1つ。
セミの一生。
セミの一生は短い。あんなに鳴いていてもその一生は短い。
それが持田の死をも表してるようにも感じる。

歩いていると道端にふとセミの死骸を見つけることがある。
持田の死もある時ふと、その時がやってきた。

また、持田の死によって恵子が喪服を取りに来た時のこと。
鏡台のある方に行く恵子。そして一度先に葬儀会場に行ったはずの治さんが恵子の元へと行く。
そこに響く、ガシャーンという音。
ここのシーン、舞台はとくに明確な解説を示さない。後の優子のシーンで暗示するだけだ。
だが、戯曲のト書にはこう書いてある。

ガシャーンと鏡の割れる凄まじい音がする。
二階から、優子、立山が降りて来て、廊下に現れる。
戯曲『夏の砂の上』より

静かに耐えてきた治さんの怒りが爆発した瞬間だ。
持田のお葬式に行けば陣野と恵子が受付をする姿を見てしまう。受付に呼ばれたことは陣野の妻から聞いているからだ。
治さんにとって一番見たくないのは、陣野と恵子が二人でいる姿だろう。
幸いにもこれまで見たことはなかった。
だが疑念を持つ治さんはそれぞれに問いかけてきた。
この数分後―かは分からないが―確実にこの後一緒にいる二人を目の当たりにする。
それに耐えられなかったのだろう。
だから引き返してきたのだろう。
そして鏡台の鏡を割ったのだろう。
恵子が結婚した時に持参した鏡台。
その恵子との過ごした時間の象徴でもある鏡台。
これを治さん自身が壊す。
何事にも受け身だった治さんの能動的な怒りだった。

嗅覚

これはもう、タバコだろう。
観客席に届くタバコの臭い。
このタバコ、初めて吸うのは持田と陣野が来て陣野と軽く口論になり陣野が帰宅したあと。
恵子のことを聞く治さんに対しはぐらかす陣野。だから会話が噛み合わない。治さんはただでさえ陣野と恵子の関係を疑っている。だからこそイライラした。
その後に聞く優子からの言葉。
明雄とは「いとこ」だった、という言葉。
尖った心に響く「いとこ」。この「いとこ」それに「タバコ」、これらもまた3文字だ。
治さんにとって意味のある言葉はみんな3文字でできている。

この初めて生まれる実態のある温かい言葉「いとこ」。血の繋がりを感じる部分。
この流れだからこそ、あの治さんの柔和な笑顔が生きてきている。
やはりこの舞台、ただものではない。
戯曲を読み漁った方がより楽しめる。
何しろ、上手い役者揃いだ。ごく当たり前のどこかにある家のお話のように流れていく。
読み込みが足りないと反省しているが、私の観劇はあと2回。果たして間に合うのだろうか。

※いとこと3文字については以下にも記している。

ちなみに、この「いとこ」という発言を聞いた後のト書はこうだ。

治のタバコから煙が立ちのぼる。治、ぼんやりしてしまった……。
戯曲『夏の砂の上』より

そうね……
ぼんやりしたとね……

いや、長崎弁わからないけど。
治さんは浸ったんだろう。
明雄がいた頃のこと、生きていたら優子と明雄が今対面していてどんな話をしただろうか、ということを。
立ち上った煙は消えていく。
まるでそれは治さんの幻想だということを示すように。

そこに寝ていた持田が部屋の片隅にたたずみ便所(戯曲のまま)に行きたいという。場所を教えた後のト書はこうだ。

治のタバコの灰が落ちそうになって、火を消す。
治はしばらくぼんやり考え込んでしまう。
戯曲『夏の砂の上』より

火を消したあとも、まだ「いとこ」という言葉の持つ余韻に浸っていたのだろうか。明雄のことを想っていたのだろうか。
一人の時間。
静寂の中。
人は考え込みやすい。

そんな中、また持田が治の思考を停止させる。
ここでの持田の役割は、治さんを現実の世界に引き戻すことのようだ。
持田が便所の在処を聞くことで、水が出ないということで、治さんは今度はバケツがあったか、お風呂に水を貯めればよかったか、など独りごちる。
現実に戻った治さん。
隣からは持田の鼾が聞こえる。
役目を終えたということなのだろうか。

味覚

幕開け。
ほか弁を買ってきた治さんは、あまりの暑さに麦茶を飲み、扇風機をかけほか弁うちわで冷まし食べ始める。

圭くんを知る私たちにとって、あんなに小口に食べるのは考えられないほど、治さんは竹輪も小口に、のり弁も小さく小さくして食べる。

戯曲にはどう食べるかは書かれていない。
それを治さんは本当に小さく、ゆっくりと、時に持て余したように食べる。
ここに治さんの無気力を感じる。
何しろ朝ご飯が1時だ。
一人暮らしの男の生活ともとれる。

だが、ただそれだけではない。
むしろこちらの方が強いだろう。

あんなにのり弁を持て余すように食べるのは、突然出ていった恵子が帰ってきたからだ。
なぜ突然恵子が帰ってきたのか分からない治さんが『びっくりした』と言うように、本当に驚いたのだろう。そして戸惑ったのだろう。

ここからの会話はひたすら恵子の住まい、電話番号、仕事は何をしているのか、と問いかける。だが、それに対して恵子は一切答えない。
きっと治さんは苦々しい思いをしたに違いない。
果たしてのり弁の味はしたのだろうか。

触覚

これは逆に指を失ったことにより失ったもの、とも考えられる。

戯曲の出だし。

小浦家、居間。柱も壁も廊下も、乾いている。この時刻、陽光で眩む故、部屋の中はやけにうす暗い。きっと太陽は真上にあるのだ。

という文章がある。
ずっと薄暗かった。
それは治さんの人生の象徴でもあるかのようだった。

それが、指をなくした治さんの時に降り注ぐ光。
皮肉に感じる。


明日と楽日は良席だ。
初日に気づいた役者 田中圭にしては珍しく瞬きの多いシーンがある。その時の彼の表情をもっと見てこよう。もっと田中圭という役者をこの目に焼き付けてこよう。
それこそ、私の五感を使って。

以前私はこの舞台をみてミスチルの『終わりなき旅』を思い出し対比させたことがあった。

実は私のこのnoteこそ終わりなき旅のように続いていることに気づいた。

そんな旅路もあと2回の観劇で終わりが来ることだろう。

東京楽日、私の旅路はどのように幕をおろすのか。楽しみであり寂しくもある。

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