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生きていることを表現する朗読家 唐ひづるさん

一つ一つの思いを言葉にのせて表現する朗読家 唐ひづるさんにお話を伺いました。

プロフィール
出身地
:青森
活動地域:東京
経歴:東京女子大学短期大学部卒。学生演劇、会社員、演劇研究生、小劇場女優を経て、現代朗読を学ぶ。現在は、主婦で眼科医院スタッフで朗読パフォーマー。生演奏・複数人数での朗読セッションや故郷の訛りを生かした朗読など、自由で楽しく、ありのままでの表現を目指している。
現在の職業及び活動:朗読家
座右の銘:東西南北天地(あなたの周りは前後左右上下ではなく、東西南北天地です)

命の発露

Q唐さんにとって朗読とは何だと思いますか?

:昔お芝居をやっていたのですが、お芝居は誰かを演じるという点で朗読と違います。芝居だと、例えば、自分が辛くても、楽しい役では楽しい状態を作らないといけません。
朗読はあくまでも読んでいる自分の状態で、自分自身を表現することなのです。同じ文を毎日朗読しても、その時によって表現が全く違ったものになります。  
セリフのあるものを朗読するときには、どう処理するか悩みます。地の文とセリフの分かれ目を自分なりに調整します。
その時の自分の心持ちで違うのです。自分の中の今ある感覚をそのまま出していく感じです。
自分が「生きている」という生命の発露、自分そのものを出せるのが朗読だと思います。私は、コミュニケーションが下手なので、朗読をすることでその場にいる人と交流している思いになるのです。
例えば、お母さんがお子さんに読み聞かせをする時も、お話の内容を教えてあげるというよりも、「あなたが大切よ」とか「すくすく育ってほしい」とか、根底にある心が子どもに伝わるものなのかなと思います。

人間は表現しないと生きていけない

Q朗読するときに、何かを伝えたい思いはありますか?

:「これを伝えたい」と思って読んではいないです。大体どう発信しても、受け取る方が主体になります。ただ、自分の内側から表現していきたいなという感じですかね。
何かを表現したい思いは常にありました。人間は表現しないと生きていけない動物だと思います。朗読は表現することの「一つ」です。
芸能やアートだけが表現と思いがちですが、例えば、家を好きなようにレイアウトすること、料理に自分のアイデアを盛り込んで、バランスよく家族に出すこと、ファッションや会話なども表現だと思います。
ただ生きているだけだでも、どう生きるか、その中に表現があるという感じです。
女子サッカーを見るの好きなのですが、監督がコメントで「なでしこらしさを表現できたと思う。」と言っていたのを聞いたことがあります。その時に「へぇ~、勝ち負けだけではなく、サッカーも表現なんだな」と腑に落ちました。

感情がわからないもの、例えば定理、説明文、解説文などを朗読する時があります。その時は何かを共感しようと思っても共感できる文章ではありません。ですので、それを面白い様に読んだりします。そうなると内容を伝えるとかではなくなります。いかにふざけるかということになります。遊びですね。遊びも表現です。

また共感できない時はそのまま共感できないなと思いながら読みます。「私はその思いとは違うのに」というところを無理して、共感したフリをすると、どこかに嘘が出ます。自分という軸がないと読めないのです。嘘をもって読むと気持悪い。
自分が気持ち悪いようには読みたくないです。

平和への思いをパフォーマンスで訴えていける

Q活動はどんなことをされていますか?

:自分で朗読の企画をして貸しスペースやライブハウスなどで朗読しています。また、事務所の企画でたまに舞台に出演します。
それから、【ここなみ舎】というグループで3人の方と組んで、朗読と語りのパフォーマンスをしています。ここなみ舎では杉並区在住の被爆者の方々の体験を主軸とした朗読・モノローグのステージを行っています。
私個人の思いとしては、<原発>に対して「嫌だ」という思いがあります。私の故郷は、むつ市で、原発の恩恵を受けた土地であり、原発の恐怖を抱えた土地です。色々な立場の人がいます。原発自体も嫌ですが、そのことに対して、色々な意見の対立が不幸の原因なのではないかと思っています。
私はそれを大きい声では言えなくて、デモなどに参加するというのでもありません。それでも平和になって欲しい思いはあり、ここなみ舎はその平和への思いをパフォーマンスで訴えていけるところです。

ここなみ舎でも個人ライブでも、即興で読むことがあります。音楽でも複数人数での朗読でも、計算したわけでも打ち合わせしたわけでもなく、奇跡的にシンクロが生まれたり、別な世界が生まれたり、ということがあるので楽しいです。
それは本があるだけではできません。場があって、自分がいて、周りがいてできることです。即興は周りを感じているからこそできることです。

また薬膳師の友人がいて、彼女が週に2回ほどお店で料理を作っています。そのお店の認知度を広めるために、試食会と朗読を一緒にしたイベントを、不定期に開催しています。その時は食材をテーマにしたお話を朗読しています。美味しくて楽しいですよ。

朗読と音楽とダンスのコラボ(現代朗読との出会い)

Q朗読を始めたきっかけはありますか?

:小さい頃からやりたがりな子でした。人見知りだけど目立ちたがりやみたいな子でしたね。学芸会などの劇も自分で立候補していました。役をやることに憧れがあったのです。
お芝居は高校卒業後に東京に出てきて本格的に始めました。就職しても続けてはいましたが、劇団がつぶれて、移ったら次の劇団もつぶれ、しばらく舞台から遠ざかってる時もありました。あるご縁で芝居を再開しましたが、度重なるオーディションに人見知りが発動した頃、一人でもできる朗読との出会いがありました。
しかし、人見知りとはいえ、一人はさみしい。現代朗読協会というところがあり、朗読と音楽、ダンスとコラボしているところをみつけ、面白そうと直感しました。正しい発音や発声も必要かとは思いますが、そこでは好きなように読んでいいんだなというのがわかり、それが嬉しかったです。ここが「ありのままの朗読」の開始点でした。

Q朗読と出会って気づいたこと、発見したことはありますか?

唐:人間関係の中で、子供の頃は自由に生きていたはずなのです。でも大人になるにつれ、こう言うべきだとか、こうやった方ががいいのではないかなど、外からの評価を気にするようになります。気持ちを言葉で伝えることは難しいです。どう思われるのか、どう伝わるのか怖いなと思います。
朗読するときに、「自分らしくやってみて」と言われて、「自分らしく」を思い出すまでに時間がかかりました。どうしても「自分らしい」を「作ろう」としてしまいます。
それは一人一人が社会の求める姿に縛られすぎているのかと思います。
朗読を行っているうちに、少しは怖がらないようになったかもしれません。「私なんか、だめだ」と思うことが結構ありましたが、「まあいいや」と手放すことが時々はできるようになりました。自分で自分を評価せず生きられるれるか、ということが今の課題です。

「面白い」「いいな」と思ってくれる人が絶対いる

Q人からどう思われるかと思うようになった背景はあるのですか?

:小中高とクラスの友達からはあまり好かれていなかったと思います。人気者タイプではない、変な子でした。 
なぜそういうことを先生がしたのかわからないけれど、クラスメイトをどう思っているのか、複数枚、名前の入った紙を配り、無記名で書かせて、それを本人に渡すという事がありました。
私に戻ってきた紙には「陰気臭い」などなど書かれていました。嫌われているのだとショックでした。

また、母親がマイナス思考の人でした。私もそれを受け継いでいるように思います。母は愛情深い人でしたが、私を目の前にして、「子育てを失敗した」と言ってました。こういう子になって欲しいという期待があったんでしょうね。けれど、どう失敗したのかは言いませんでした。私も訊きませんでした。ただ、自分が失敗作なのだと思い、不安でした。自分はダメな子という意識が外れなかったです。その頃は誰もが死にたいと思いながら生きていると思っていました。定期的に私はそろそろ死んだほうがいいんじゃないかと思っていたので、死にたいと思ったことが一度もない人がいると知った時はびっくりしました。

自分本来の場所に戻る

Q今唐さんと朗読の関係はどのような関係ですか

:朗読を自分から離したら、逃げる出口がなくなります。
私は怠け者なのかもしれないけど、日常のあれやこれやはあまりやりたくないのです。やりたくないけど、本当はもっと気を使うべきなんじゃないか、でも、やったら、人はもっと上を要求してくるんじゃないかと身構えてしまいます。
朗読する時間が持てることで、リセットではないけれど、自分本来のポジションに戻れます。日常で自分を見るのを忘れていることもあり、朗読すると私のいる場所はここでした、私の姿はこうでした、と見えてくることがあります。
「私なんて・・」があると、朗読するのも辛くなります。原点に戻って、なぜ朗読するの?と思うようにしてます。
生きてるからです。朗読は生きていることの一部なので、例えば腹が立っているときに朗読すると落ち着きます。これ皆さんにもオススメです。

Qこれから先、唐さんが向かいたい方向はありますか?

:生きていることの中に朗読があると言ったことと何か近いものがあるかもしれません。生きていることの中に、自分の故郷を大事に思う気持ち、命を大事に思う気持ち、自然を大事にする思いなどがあると思います。文明に依存して生きている私が言うのはおこがましいと思いますが、ずっと地球で暮らして、この後も命が続いていくために、自分と自分以外の人が生きていくために、気持ち悪い方向へは行きたくはないです。 
原発について、今は原発に依存しているけど、この後原発のゴミはどこに持っていくのかという問題があって、このまま走り続けるしかないと思う人もいると思うけれど、私はどこかで見切りをつけなきゃいけないと思っています。
危険な何かを抱えながら生きているわけですよね。
福岡伸一さんという生物学者が「物は形を変えながら存在しています。」という事を言われています。自分と周りとは、境界線があるように見えるけど、実は境界線はあるようで流動的で、細胞は絶えず入れ替わっているから実は境目というものはないとおっしゃています。(不確かです、すみません)そう考えると全部つながっていることになります。細胞と原発のゴミといつかは混じって来てしまいそうで、そういう気持ち悪さがあるのかもしれません。それが朗読とどうつながるのというとはっきりはわかりませんが、朗読するときは、自分の周りを全部感じながら読むことだから、そうすると気持ち悪いものは気になります。強く平和を訴えるとかはないですけど、「平和がやっぱりいいね」と思う人が多い方がやっぱりいいなと思っています。

記者:唐さんの朗読に対する熱い思い、それと同時に生きている表現を見てみたくなりました。本日は貴重なお話をありがとうございました。

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唐ひづるさんの詳細情報はこちら
↓↓↓
FBページ:https://www.facebook.com/hizuru.kara

非営利団体ここなみ舎:https://www.facebook.com/kokorowave/

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【編集後記】
今回インタビュー記事を担当した善家、岩永、高山です。
インタビューの時はおしとやかな感じを受けましたが、後日朗読を拝見させていただいたときはとってもエネルギッシュで、朗読していたお話の世界に引き込まれました。記事の中で唐さんがおっしゃていた本来の自分のポジションというところを感じたように思います。
唐さんの益々のご活躍を応援していきます。

この記事はリライズニュースマガジン”美しい時代を創る人達”にも掲載されています。
https://note.mu/19960301/m/m891c62a08b36

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