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小説「女三四郎と呼ばれた巡査」2


2 花菜、特錬生に選ばれる

 術科指導の向田は来年で勇退であるが、自分の時代の最後にどうしても花菜に特錬生として活躍してもらいたいと望んでいた。それも彼の同期である須賀田との約束でもあったのだ。警察を含む地方公務員も近年六十定年で退職金を得て完全に辞めて(警察から足を洗って)他の職に就くか、それとも四分の一くらい減額されてもそのまま警察署に留任するか、辞めて再度嘱託(給与は半額)で働くか三パターンを選べるようになっている。向田も須賀田も奇しくも赴任が布施警察署であった。当時は署の庁舎(建物)は「近鉄俊徳道しゅんとくみち駅」の近くにあり、結構古い建物であった。震災など縁遠くまだ耐震設備をうるさく言わない時代だった。四階建ての別館の四階には「地域課」(当時は警ら課と称した)があった。一階の入り口にはカッターシャツとかの洗濯物を入れる縦長の木箱が設置されていた。洗濯物は大阪市城東区にある「洗濯工場」に集められ、クリーニングされて又署に戻ってくる。一階には食堂があって、二階は交通課、三階は生活安全課(当時は防犯課)があった。
 配属された「新入期」(そう呼ばれる)の者は、そうした洗濯物や部内報、個人で月一で購入している「警察時報」や「警察公論」などの配布物を配置室の個人に届ける慣わしになっていて、それは何時の時代でも同じだった。特に刑事関係について詳しく解説している「刑事部報」や受験用として「トップ」「ベスト」「こすぞう」「SA」などの刊行物は、名前が変わっても法律や条例の改正点、昇任試験対策などが網羅されて、家庭持ちであっても自分が気に入ったそれらの月刊誌を一冊取っている者が殆どだった。

 術科の部屋は道場の横にあるのが通常だ。道場は板の間の剣道場と畳に似せた作りの柔道場とが二つある。布施警察署の7階には比較的新しい建物であることからエレベーターで登る。一躍「時の人」となった翌日花菜は、術科の部屋に呼ばれていた。柔道担当の向田むこうだと剣道教士きょうしである飛田とびたの二人だけの部屋。花菜が当直「け」(非番と呼ばれている)の用事を済ませた十二時頃に部屋をノックすると、向田の声で「入れや」と声がして花菜が中に入る。

 中に入って花菜がうやうやしく礼をする。「ま、いいから座れ」と横の不在中の剣道の先生用椅子に座れと促す。花菜が座る。向田はにこにこして花菜の顔をまじまじ見るので彼女は目を逸らす。「いやあ昔取った杵柄きねずかやな、最近あんまり練習してへんねやろ?」花菜は「はい」と素直に答える。さっき食堂で花菜が向田と顔を合わせたのだったが向田は知らんぷりをしていた。6階には他の署よりも結構広目の明るい食堂があり、「新広デリカ」が作る定食の数はかなり豊富であり、隣接の警察官もこぞってここを利用していた。庁舎が比較的新庁舎の部に入ることから署自体は人気がある。向田は、花菜が結構ボリュームがある食事を摂っていたのを知っていたがそれを言うとセクハラになるので言うのを止めにした。
 
 例えば、例年人気ベスト3の中に「柏原署」「水上署」「高石署」があるが、それは言ってみれば定年間際の「ゆっくりここで過ごしたい」ベスト3という願望が現れた人気であって、もちろんそれらの署は忙しくなく、事案(事件や事故)処理も少なく、「安泰」と言う意味であった。

 向田が赴任した昭和の時代は、「交番」は「派出所」と呼ばれていた。服装も今と違った。拳銃のひもは、昔はびナイロン製の布を編んだヒモだったが今はプラスティック製で、拳銃も以前は38口径だったり45口径もあったのが、今は軽い22口径で至近距離でも当てるのが結構難しい。パトカーのボディが英字で表示されてはいなかったし、屋根に「識別符号」である署の頭文字と数字の組み合わせの表示もされていなかった。識別は空のヘリから見て現在位置が分かりやすいようになっているから、今後機動捜査隊(機捜隊と呼ばれる)の覆面パトもヘリが判別しやすいように変わっていくことだろう。

 向田の活動していた昭和の時代は、街頭犯罪の中でも「ひったくり」が多発し、特にこの布施警察署の管轄区域である東大阪が日本一発生が多かった。活動の移動手段は殆どがバイクで、駅前の管轄交番では一部自転車が使われることもあった。

 交番へは署の異動にともなって変わることがあり、それはパトカーでも同じだった。彼にとってもどの交番でも思い出が深く、それぞれに先輩、後輩や上司と絡むことで思い出す情景も違う。特に近畿大学を受け持つエリアは上小阪交番だったが、そのエリアでも「とびきり上等の」悪ガキがいたのを今でも忘れられない。彼らは常にグループで活動しており、犯罪の入り口が「万引き」次に「自転車盗」それから「オートバイ盗」へ移行し、その後「ひったくり」をやらかす。だから万引き等のことを初発型非行と言われる。向田も先輩のやり方を取り入れていたが、彼流に作り変えていたのは「悪ガキノート」の作成だった。彼が係長になっていた頃には自作の補導用メモを作り、みんながそれを重宝がって活用していた。特にその悪ガキの主犯格の者を、まだ15歳くらいの頃から18歳になるまで徹底的にやると心に決めていた。向田は人生において負い目を感じており、ある意味警察人生で勝負をかけていたのだった。橋田という少年は、向田から見ればとことん悪ガキだった。彼の「許さない」感情がメラメラと燃えたぎっていった。やりたくても組織であるから出来ない事も多かったが、ある日橋田が親のバイクを無免許の15歳の男に貸していた。通常警察官が現認していなければ赤切符(無免許とか酒気帯び運転という行為で適応される)は切れない。現認していないのだから。それを「認知した」からと言って、現認していた一般人の協力者にお願いして調書を作成したのだった。そういう例はあまりない。いや初めてかも知れない。それを交通課の定年間際の主任(巡査部長)に持って行ったのだった。通常なら「こんなもんあかんで」と言われるに決まっている。ところが、その主任は「よっしゃやろう」と、向田を見て言ったのだった。そのことにより橋田は350日の免停(免許停止)になった。それでも当時向田の先輩からはそんな事は「辞めとけ」とか「首が飛ぶぞ」とか言われていたのだった。それでも敢えて彼はやった。もう徹底的にやると決めていたのだから。彼をそこまで追い込んでいたのは、彼の警察に入る前の出来事もあったが、その上小阪交番でのある事がきっかけだった。(それはまた次回に譲ることにする。)

 向田は昔を懐かしつつも、目の前に座っている花菜の現在の置かれている状況と自分の駆け出しの頃の状況を重ね合わせているのだった。

「それでお前、係では少しは馴染んできたんか?」と聞くと、花菜も即座に「はい。」と答え、次いで「みんな同僚も先輩も係長もいい人ばっかで馴染んでます。」と答えた。その時花菜は彼女の近くで係の者が話しているのを聞いた言葉を思い出していた。
「あの須賀田ってさぁ、姿やろ、姿三四郎やん」「そやな、これからアイツ女三四郎やな」と所構わず大笑するのだったが決してばかにしている訳ではなく、尊敬の念が込められていた。
 向田が切り出した。「お前を特練に入れようと思っているんや。お前の気持ちはアイツから聞いて分かってる積もりやから本特(本部特練)には入れんようにする、おれがここにいる限りはそれはちゃんと阻止するからな」
 花菜は、「なんですかあ。先生がここにいる限りって。じゃあ考えときます」 
 「あほ。もう決定事項や。お前に選ぶ権限はない」と向田。「それっパワハラじゃないですか。」とくすくす笑いながら切り返す花菜だった。確かに決定事項であった。既に署長自ら花菜の試合を見て向田に声がかかり、特練に入ることは署長決裁が下っていたからだった。
 一日を置いて翌々日花菜は朝礼で特練任命式というものがあり、紹介される側の列の中にいた。それは花菜だけではなく柔道と剣道の新特練生合わせて八人いたから緊張もそこそこだった。結局特練については、花菜も仕方がないという感情を受け入れざるを得なかった。そしてその任命式の翌日から休日返上で午前中は特練で励む日々が続いた。どこの署でも同じで同期の不満を吸収することで自分の不満の捌け口になぞらえたのも同じだった。彼女は自分の叔父で戸籍では父親になった須賀田を名乗っていたことでも、自分が須賀田に恥じない自分を演じなければいけないように思っていた。顧問である向田先生が良い人であるというそれだけで耐えていけた。しかし何よりも彼女は柔道が根っから好きなのだった。だから他の特練生が歯を食いしばって耐えているようなシーンでも内心余裕を持っていられた。それは初任科(警察学校)でも同じだった。彼女は既に十分鍛えており、どんなことでも耐えていけたから、どれだけ腕立てをさせられても耐えていけた。学校では、様々な事柄で制約を受ける。ゴミの分別などの些細な事が学校内部では重大な事柄であるかの如く扱われることがある。即ちプラごみと燃物などがそうだ。例えば牛乳パックを燃えるゴミとして捨ててあった場合は、一人の行為が連帯責任になり即腕立て百回になることがしばしばだった。そんな時でさえ彼女はみんなと同じ歯を食いしばって耐えている顔をしていたが、内心は平気だった。それが学校を卒業して赴任しても似たような環境があることは同期や先輩などから口コミとして伝わってもいたのだった。宝塚の慣わしを出さなくても、結構警察内部ではパワハラは常態化していた。向田はそれを懸念していた。自分の育った昭和世代ならまだしも、時代は平成を超え令和に移っているのに同じような出来事が行われているとしたらこれから去る者としても居た堪れない事柄であったのだ。

 


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