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小説「ホーチミン・シティ」4

4  グェンの傷痕、そして日本へ

 シクロの運転手Nguyen Van Hoaグェン・バン・ホアは、日本人の父とベトナム人の母の間に生まれた。
 ベトナムの沖合に海南島という島がある。この美しい島は太平洋戦争中日本軍にとって地政学的に重要な地理的場所にあり、鉱物資源の宝庫であった。歴史的には日本軍が上陸後六年半に亘り統治し住民を支配した。その間に残虐な行為を原住民にしたという不名誉な記録も残っている。敗戦後約700人の日本兵が現地にとどまったが、ホー・チ・ミンは日本軍の統率能力を高く評価しており、北ベトナム兵の統率を海南島で残留した日本兵に委ねた。単なるゲリラ兵ではなく、侵略する他国軍とも互角に戦える能力を彼らに身に付けさせることが至上命題だったからだ。生き残った日本兵にしてみれば太平洋戦争はまだ終わってはいなかったし、ベトナムで生まれた者にとっては、敵とは今や日本ではなかった。日本兵もベトナムという国に完全に溶け込み、ベトナム人との間に家庭を築いた。
 
 グエンは、ズボンのポケットの中に入れた財布から古びた一葉の写真を取り出して私に見せた。日本語を話せない彼は一言ぽつんと「シマノサブロー」と言った。写真は白黒でくしゃくしゃになっていたが、笑っているその顔は日本人の顔だった。
 私達アジア人は、どこか顔立ちが似通っている。中国人、韓国人、モンゴル人など一見すると日本人と区別が付かないことがある。後から思えば、最初に彼に会った時観光目的ではあっても、「どうも」「こんにちは」「ありがとありがと」と日本語を連発して私たちを笑わせた。しかし時々私を見るときに、寂しさや悲しさの片鱗を見せるのは、日本人の父親に会いたくても会えないという他人に言えない内に秘めた秘密があるからか。                 私は、ベトナムで唯一知り合いの彼女を介して、彼に私の連絡先を教えることを許可した。「父の国に一度行ってみたい」「仏教の国を見たい」「父に会いたい」ということが彼にとって唯一の希望であり、死ぬまでに叶えたい願望であることを、彼女を通じて知ったからだった。
 グエンと別れた後、家に戻れば夫も子供もいるはずの彼女でさえタクシーで私達と一緒に同乗して見送りしたいと言って出た。タンソンニャット空港で一緒に食事をして、出国するまで一緒にいてくれた。その後私と息子は予定通り空路カムラン空港に飛び、ニャチャンに向かった。
 

 彼女からSNSを通じて連絡が入ったのはそれから私達が帰国し三か月を経過したころだった。
 シクロの運転手グエンと、彼女は通訳として日本を訪れることに決まったと書いてあった。へえ、彼女が来るのか・・。何よりもグエンが日本をはじめて訪れるというのだ。
 彼が六十五歳であれば、父親は最低でも八十五歳にはなっているはずだ。その父親に日本での家庭があってうまく再会を果たせることが出来るのかがやや心配でもあった。父親の健康状態も私は知らない。それらの懸念はすでに解消されているのだろうか?私はいくつか気がかりなそれらの点をSNSで彼女にぶつけてみた。
 彼の父親に関しては日本とベトナムの友好団体をはじめ彼女が知るボランティア団体が協力しているとのことであった。父親である島野三郎氏は十年ほど前に一度大病したが現在は奈良の室生寺の近くでひっそりと暮らしているらしい。身寄りもなく(帰国後一度結婚したが十年後離婚している)子供もないとのことであった。私にできることは、彼らを無事に案内すること。いろいろ思い巡らし過ごしていた七月のある日、彼女からメールにメッセージがあった。今はもう関空に着いて、奈良に向かっているという簡単な内容だったが、またしても私は彼女に驚かされた。それが彼女の実行力なのか、他人を驚かせるサプライズなのか知れなかった。しかし、バス、電車いずれにしても二、三時間で二人はこちらに着くだろう、用意しなければ。私は焦った。

 
 彼ら一行は、関空からリムジンバスで近鉄上本町駅に向かい、そこから近鉄大阪線の電車に乗り、桜井駅に向かっていた。急行車内で彼女から四十分程で着く旨の連絡が入った。
 近鉄桜井駅とJR桜井駅はくっついており、私が住んでいる奈良市からは車で四十分程で国道169号線を南下すれば着く。桜井市は昔から木材の町としての顔がある。どこからか風に乗って木の匂いが立ち込める。吉野材の集積地であり、材木市もある。日本三大文珠のひとつである安倍文殊院があり、長谷寺は西国八番札所であじさい寺として有名である。私は先に桜井駅に着いていた。学生の頃ここの駅前を一方通行と知らずに巡査に切符を切られたことを思い出した。今度は彼女を助手席に、私が運転する番である。そしてグエンに対しては、自分は厳かにして重大な役目を果たさねばならない。


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