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OBライヴを企画したきっかけ


河村真也
中村友也

今回はバンド・インタビューではなく、OBライヴがはじまったきっかけについて!
どのように企画が進んだのか、今の軽音部ライヴを確率するまでや、これからどうしていきたいか……。企画を立ち上げたメンバーの一員である、河村真也と中村友也に詳しく話を聞いてきました!

●OBライヴをはじめたきっかけを教えてください。
河村 日デを卒業したら外バンをしてない限り、ライヴをする場所がなくなるじゃない? 卒業してから”日デのメンツでライヴをやる場所がほしいな”と思って、それならライヴを企画すれば良いかなと。ある程度先輩たちと繋がりがあったので、卒業生達だけのライヴを企画して定着させれば半永久的にライヴができるなって。毎年卒業生が増えて、規模が大きくなるから”フェスできるんじゃね?”とか言ってね。
中村 いくつかライヴ・ハウスを借りて、同時開催(笑)。
●夢がありますね!
河村 実も蓋もない話しをして、夢を膨らませてました。
●具体的にOBライヴの話しが出たのは、卒業してからですか?
河村 そうだね。2013年の10月だね。
中村 そんな時期だったんだ。
河村 卒業後仕事を始めて、”ライヴしてぇな”って思い始めたんだよね。その頃は学祭も終わってるし、ライヴを企画してやるなら現役生も少し絡めたいなっていうのがあったので。
中村 たしか、11〜12月あたりに提案したんだよね。
河村 でも、企画してライヴを決行するまでのスパンは短かったよね。俺は2013年度の学祭ライヴにも出演してたから、ライヴの準備もしつつOBライヴの企画も進めてたわ。10月で概要とかがまとまっていたから、すぐに出演希望を聞いたりしてね。上の代は主にちゅうそんに連絡をしてもらって、現役からは2バンドほど出演してもらうことになった。当時直井が書いてくれた議事録を今読み返しているんだけど、すごく役立ってる、ありがとう。
●コンセプトが「世代間交流」だったんですね。
河村 そうそう。まぁこれは後付けだけどね。
中村 とにかくライヴがやりたかったから(笑)。
河村 それ裏コンセプトね。
●立ち上げたメンバーに師匠も居たんですね。
河村 人手が欲しかったからね。メンバー自体が割と真面目な人が多かったので、師匠はエッセンス的なところで入ってもらった感じ。
●なるほど。OBライヴではカレーも販売しましたよね。誰が最初にカレーを出そうと言いだしたんですか?
河村 カレーは、ぬまだ! ぬまが外バンドのメルシーおじさんで、カレーを売っていてたんだよね。師匠とカレー対決していたんだけど、師匠は煮込み過ぎて具が全部無くなったっていう(笑)。
中村 それよりかはうまくいったな(笑)。
河村 ぬまが居なければフードはなかった。
●そして、OBライヴ「SCRAMBLE」が決行されましたね。手応えとか覚えていますか?
中村 まあまあ手応えはあったと思う。俺が死んだ日。
河村 あー、あの時か! けっこう大事なトラブルがありましたね。
●集客はまあまああったと思いますが。
中村 まあまあ埋まってたよね。
河村 ただ個人的には、俺等が2年の時の学祭ライヴ「Re:BEAT」のときが史上最大人数だった。その日は台風が来ていて、会場はルイードK2でさ。台風が来てるからって学校で行われている学祭が早めに終わって、そこから人が会場に流れてきたんだよね。あれが集客的には良かったよね。
中村 100超えたっけ?
河村 いや、90代だと思うよ。それと比べると集客の伸びしろはあるなという感じはした。だけど、1回目にしてはまずまずという感じです。このライヴがあって、OB達に声はかけやすくなったかなという感じではあるかなー。
●今年は現役生とのライヴ「桜丘の戦い」は、どのようにして進めていったんですか?
河村 最初は俺がOBだけの企画をやろうとしてて、また現役にも出てもらいたいと思って声をかけたら、現役から”一緒にやりませんか?”って話しになったんだよね。そこから企画が合体した感じ。丁度今年も出演する人数が少なかったからいいかなと。
●そこから戦いになったんですね。
河村 うん。ただ、学園祭ライヴって在学中に多くても3回しかない、学生時代の貴重なイベントなので一緒にして”良いのかな?”って感じはしてました。
中村 たしかに、それはある。
河村 学祭ライヴの主役は現役生だからさ。で、OBライヴの主役はこっちで……今回は合体したからどっちもどっちって感じなのかな。
●そういう意味ではすごく良いなと思いました。
河村 俺の中では当初”学祭ライヴにおじゃまする”っていうのがあったから、企画とかは現役生にお願いをしてっていう風に落ち着いてますけど。学祭ライヴって言い方ではなく、秋ライヴっていう言い方にしてるんだよね。
中村 毎年徐々に学祭との日にちがズレだしたよね(笑)。
河村 ちゃんとライヴハウスを借りてやるようにしたからっていうのもあるよね。
中村 最初の頃は学校の9階で、古い電子ドラムとかを出してライヴをやってたけど、前からあった騒音問題が公になって急遽「ライヴハウスを探せ」って、学祭の3ヶ月前に学校から言われて「うぉぉお」ってなったわ(笑)
河村 徐々に軽音部員の人数も増えて2Daysとかやったよね。DESEOとかRUIDO K2とか、挙げ句の果てにSHIBUYA Cycloneとかでやったよね(笑)。
●懐かしいですね(笑)。大分世代的にも人数が増えてきましたよね。
中村 この前、軽音部に所属していて活動的だった人達の人数を数えたもんね?
河村 リストにしてあって、60人ぐらいかなー。
●後2〜3年すれば、100人いくんですかね。
河村 そうだね。
●最後に、これからのOBライヴはどういう風にあってほしいですか?
中村 そりゃー、渋谷でフェスみたいなことができればいいよね。
河村 どうだろうね、仲間内でフェスをやるなら俺等が定年とかにならないと(笑)。日デが潰れない限り続けますよ!
中村 そうだね。
河村 新しいことをやろうとする人達が出てくると良いなと思う。
中村 それは思う!
河村 恒例だからやるんじゃなくて、誰かが率先して新しいこととか、もっとこうしたら良いとかね。わりと俺等の代とか色紙(軽音部OB)の代が入ってきたぐらいから、今の形が出来上がってきたしね。ムービーとか色紙が案を出してくれたり。
中村 スタジオ・ライヴもね。
河村 今になっては、普通にムービーを作るようになって、それはそれで良いんだけど、必ずしも作らないといけないっていう訳ではないと思うんだよね。”その代でできることをやって欲しい”とも思ってる。その代で新しいことをやっていきつつ、先代がやってきたことを知っていれば、やり方の幅も広がっていける。だから、そういう人が出てきたらOBライヴとかもバトンを渡していきたい。
●10年とか経つとまた変わりますもんね。
河村 次回OBだけのライヴをやったらバトン・タッチをしたいなっていうのがあって、その時に熱量を持ってる人が”俺が引き継ぎます”って言ってくれるといいなと。
●継続してやるものだからこそ、バトンを渡していかないといけないですもんね。ちゅうそんさんは、ありますか?
中村 ……もうカワシンが言ってくれました。
河村 師匠居ないとすぐ燃え尽きるんだから。
中村 (笑)。OBライヴは唯一何の弊害ものなく、自分が出れるライヴだね。OBライヴは呼ばれてる感じだから、やりたいようにできて、カワシンが言ったようにこれからどんどん熱量がある人が来たら、みんなで話したりとか。まぁ、続けて出演していきたいっていうライヴだね。
河村 フェスとかやりたいって言ってるぐらいだから、続けて出演する気は満々なわけですよ。
中村 そうだね(笑)。まだまだやりたいことが一杯あるしね。
●どんどんOBライヴが活発になって、新しいこともやっていけると良いですね。
河村 そうだね、希望がいろいろあるね。もう、規模が大きくなるにつれて、やめるわけにはいかねーなって感じはあるよね。
●後は、これを引き継ぐ人が出てきて欲しいという感じで。
河村 うん。
中村 俺達は、何も考えず出演する側で、そこに遊びにいくっていうテンションでいきたいよね(笑)。
河村 だけど”知らない人達が居る……”っていう風にはならないようにしないとね。
中村 たしかに(笑)。顔は知られておかないと。そういう面でも”毎回出演しないといけないな”って思うね。
河村 繋がりをなくさないように、パイプをしっかりしないとね。
●これからの軽音部の未来に期待しつつ、私達も頑張っていかないといけませんね。それでは、お忙しい中ありがとうございました。
河村・中村 ありがとうございました!


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