日本人の本音と建前とポリティカル・コレクトネス

日本人は、本音と建前を使い分ける民族だと言われます。例えば結婚が決まった男性に、相手の女性はどんな人かを聞くと、アメリカ人は「もう本当に素晴らしい女性で、美しくて頭も良くて・・・」と、聞いたことを後悔するくらいのろけてきますが、日本人は「いや、別にかわいくもないし料理も下手だし、気の迷いと言うか、逃げられなかったんだよ」と、わざわざ自分の妻を下げることを言う時があります。あるいは女性をデートに誘った時に、相手の女性が私に興味がなかった場合、アメリカ人は単に「ノーサンキュー」と言いますが、日本人は「その日は友達と約束があって」「タイミングが合えば」「こちらから連絡します」と、決して「ノー」とは言いません。私はこれを、相手の反感を買わないように、角が立たないように、言いにくい事柄を避ける技術だと解釈しています。はっきり言うと相手の嫉妬や怒りを買うかもしれない。だから軽い嘘をついてやり過ごそう、という訳です。

日本人は感情を抑えるのが苦手

ところが、そんな日本人が平気で攻撃的なことを言う時があります。外国人記者を「シャラップ」と恫喝したり、セクハラ発言に抗議する女性議員を中傷したり、シングルマザーのフィギュア選手の一挙手一投足をしつこく批判したり。つまり、日本人は感情的になると自分をコントロールできなくなり、頭にある事柄をそのまま発言してしまいます。それが差別や誹謗中傷、セクハラでも関係ありません。相手の感情や、社会で正しいとされる事柄つまりポリティカル・コレクトネスなど、すべて考慮できなくなります。何か言われてムカついたら「黙れ」、巨乳に目を奪われたら「何カップ?」、そして嫌いな人間には執拗に攻撃。「オタクはキモい」「生意気な女はムカつく」「シングルマザーになってすぐ彼氏作るのは不純で汚い」「同性愛は気持ち悪い」など、感情的になるとその感情を相手にそのまま投げつけようとします。はっきり言って、これは非常に幼稚な行動です。私はニュージーランドとアメリカに住んだ経験がありますが、公の場で露骨に感情を投げつける人は、ほとんど見たことがありません。

外国人も聖人君子ではなく抑えているだけ

では、ニュージーランド人やアメリカ人は日本人よりも優れた人間かと言うと、まったくそうではありません。彼らは単に抑えているだけです。感情的になって誰かを攻撃すると、社会的に抹殺されるのでやらないだけです。そういう意味では、外国にも本音と建前はあります。アメリカ人は心の中で「黒人なんてサルみたいでキモい」と思っていたとしても、決して表では言いません。日本人の本音と建前が相手との関係を悪くしないようにする技術なら、外国人のそれは社会で生活していくための技術です。人間には良い感情も悪い感情もあり、国や民族は関係ありません。ニュージーランドやアメリカにも、差別や偏見、いじめは普通にあります。しかし、これらの移民受け入れを重視する国では自然と民族や文化が多様化していくため、「黒人はキモい」という感情を公で認めてしまったら、社会が成り立たなくなります。ですから、「すべての人種は平等」という考えは、何があっても守らなければなりません。これらの国では、差別には非常に敏感で厳しく対応します。

感情を抑えるのが先進国の大人

生意気な女性にムカついても、肌の色が自分とは違う人に嫌悪感を持っても、それをそのまま言動に出してはいけません。もうそういう時代ではありませんし、それは許されない社会になるべきです。現代の成熟した国家では、多様性を認め、人種や性別で差別されない社会が求められます。それは日本も例外ではなく、世界の一員である以上は、世界から顰蹙を買う社会は信用されません。厳しい指摘にムカついて「シャラップ」と言うのは、古い日本の村社会では許されても、現代の世界基準では許されません。ムカついてもイラついても表に出さず、冷静で理性的な行動を取る。それが現代の先進国の国民に求められる態度です。「女は馬鹿で劣等だ」と本気で思っていて、そんな女性が自分より出世して許せないと思っても、自分とは違う生き方を選んだ人が、自分よりはるかに豊かで幸せな生活をしていることに殺意を抱くくらい嫉妬しても、表では「あなたの活躍をいつも応援しています」と笑顔で言うのが大人というものです。現代の大人には、我慢と自制心が必要なのです。

感情をコントロールする練習をしよう

私は感情が湧き上がるのは、たとえそれが黒い感情だとしても、悪だとは思いません。それは一種の生理現象であり、防ぐのは困難だからです。ただし、その感情をそのまま投げてはいけない、と言っています。以前話題になった女性議員へのセクハラやじですが、私はニュースを見た瞬間、正直言うと「ざまあみろ」と思いました。彼女は以前テレビ番組に出演していましたが、私はそれを見ていて、彼女の性格と男性に対する態度にうんざりして、彼女が大嫌いになっていたからです。セクハラや批判は、散々男をバカにしてきた報いだからいい気味だと最初は思っていました。しかし同時に、自分の感情とセクハラは別問題ではないかとも思いました。嫌いだからと攻撃するのは、はたして正しいことなのかと。女性というだけでプライベートを揶揄され、それが議会で堂々と行われてそれで良いのかと。私は自分の最初の考えが不適切だと気づくのに、少し時間がかかりました。私は未熟なので、湧き上がった感情をいかにして抑えるか、まだはっきりした方法は自分で確立できていません。しかし、練習すれば徐々にできるようになるのではないかと思っています。私は今も彼女が嫌いです。しかし、もし会っても表には出しません。もし一緒に仕事をすることになっても、成功するように彼女に協力するでしょう。感情や人柄への好き嫌いと、仕事は別だからです。現代社会とはそういうものです。

日本が成熟した国家になるには、文化を変える必要がある

本音と建前を使い分ける日本人ならば、これは少し練習すればできるようになるはずです。感情を抑えて行動するのは、日本人はいつもやっていることではありませんか。福島の放射能が怖いと思っていても、「食べて応援」「福島へ行こう」などと汚染はないもののように振舞っているではありませんか。戦時中徴兵されて悲しくても「これで務めが果たせる」と胸を張り、家族もお祝いして万歳しながら笑顔で送り出していたではありませんか。そのような馬鹿げたきれいごとはできるのに、なぜムカつく感情を抑えて表に出さない程度のことができないのでしょうか?普段仕事や人間関係でたくさん我慢しているため、これ以上我慢できないのでしょうか?もしそうなら、我慢と感情の使い方が間違っています。私も日本人ですが、日本人の行動は時に理解できません。しかし一方で、日本人の本音と建前は文化であり、文化とそれに基づいた行動様式を根本的に変えるのは、かなり時間がかかるのでは、とも思っています。文化を変えるのは、ライフスタイルや習慣を変えるよりも難しいものです。日本人が成熟した大人となり、日本が先進国のお手本として世界から尊敬される日はかなり先、いやもしかすると永遠に来ないのかもしれません。

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