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2017/12 ドイツ留学中の女子三人へインタビュー。 「教育」「都市計画」「マーケティング」を、それぞれが語る。

今回インタビューに応じていただいた長谷川沙希さん、豊川季絵さん、高木吏花さんら三人とは、2017年11月10日にフランス・リールで行われた、サッカー日本代表対ブラジル代表戦で行動を共にさせていただき、今回の企画を迎えることができた。


 豊川さんと長谷川さんは現在、筑波大学の大学院生でいらっしゃり、豊川さんは「都市計画」を、長谷川さんは「教育」を専門に研究や調査をし、高木さんは日本での大学を退学し、ドイツの大学入学を目標にドイツ語習得に励んでいる。
 彼女たちそれぞれが現在、そして今後歩んでいく専門分野について話を伺った。

まず最初にお届けするのは長谷川沙希さんの「通常の学校における、特別支援教育について」についてなのだがその前に、訪問くださった皆さんには  

S.E.N.S(Special Education Needs Specialist)のホームページを事前に一通りご覧いただきたい。とくに、資格取得者の声について一読してほしい。そして、ユニバーサル・デザインという、授業するうえでの骨格形成にも触れてほしい。長谷川さんは、特別支援教育士資格を取得するわけではなく、そもそも教員資免許取得の際には障害児童教育を学ばなければならない、とのこと。現在の教育現場の現状も想像して、以下のインタビューをご覧ください。

―筑波大学の教育学はどういった点で有名なのでしょうか?
「教員を実際に現場へ送り込むというよりは、教育学の研究をメインにやっています。学級経営や財政、国際比較教育といった分野があって、子供と教師という関係だけではなく、どんな環境がその周りを支えているかを研究しています」

―長谷川さんは、「通常の学校における特別支援教育」について研究されていますが、それは具体的に何を研究されているのでしょうか?
「教員が現場で教えるにあたって、LD(学習障害)やADHD(注意欠陥多動性障害)、自閉症の子供たちが通常の学級にいて、それに対して教員が教えることに苦労しているのは研究結果に出ています。そういった子供たちに対して、約30~40人いるクラスのなかで教員がどうアプローチしていきたいのか、いくべきかについて研究したい。でもその前に、教員がどんなことで悩んでいるのか、教育においての障壁をどういう風に克服していったのかを研究を通して知りたいです」

―自分は日本の報道などを通して、日本の教育現場が長時間拘束などで過酷な環境にあると思っています。長谷川さんはそれについて、どうお考えですか?
「日本にいたときは、そこまで疲弊しているとは見えなくて、やっていけると思っていたんです。けどドイツに来たら、こちらの教員が置かれている環境が全然違っていて、それを見たら『日本って大変なんだな』と思うけど、日本にいる限りはそう思わないと思います」

―それは、長谷川さん自身に耐性や我慢があるから、ということですか?
「我慢するというよりは、ある程度の取捨選択はすると思います。我慢しすぎると、辞めちゃったり
最悪自殺とかしちゃったりする。私はそこまでしないと思います。職業にそこまで命をかけたりはしない。耐えるのではなく、辞めます。教員免許を持っていれば、非常勤といったある程度の仕事があるので、そこまで命をかけてはいないです」

―教員の方々それぞれの考え方であるとか、前もって理解していることに違いがある、ということですか?
「それはあると思います。教員を辞めちゃったり、自殺したりする人は本当に純粋に子供が好き、という人が多い。本当に子供と接したい。でも、それ以上に大変なのが保護者や教員同士の関係。大学で学べないこと、現場でしか分からないことに、自分に耐性ができていなくて、そういう人が辞めちゃうのは多いというのは聞きます」

―長谷川さんが特別支援教育について研究されていることからS.E.N.S(Special Education Needs Specialist)のホームページを閲覧し、ユニバーサル・デザインという言葉をはじめて目にしました。それについて触れさせてください。自分の体験談を用いてしまうのですが、いまデュッセルドルフで水泳指導をしていて、日本でも就職先での仕事のひとつは水泳指導者でした。個人的な見解ですが、自分も含めて多くの競技指導者は、現場での指導をとおして「指導=教える」ということを考えるようになる。その反面、学術的なアプローチで「指導」を学んでいないのではないかと思っています。長谷川さんはこれまで受けてきた指導が、学術的なアプローチが反映されていなかったと思えますか?

「ユニバーサル・デザインは卒論でやったことで、これは基本中の基本です。国際的な英語文字を使っているけど、今までも教育実習で教育実習生を担当する指導員が、その実習生に『こういう風にやってね』と教えてきていることなんです。けど、このユニバーサル・デザインという言葉が持つ意味と言うのは、あえてそれを言語化することで、みんな(現場の教員全員)のなかにもっと意識下ができるということです。今までも存在していたことだけど、この考え方をもっと意識下していって、教員同士で共有していきましょう、というものです。それを言われるぐらい、日本の教員は孤立していて、それぞれが自分のテリトリーの中でやりきる。それで手一杯なんです。それに加えて事務作業もあって、それが過酷と言われる所以で、それで孤立化して誰にも相談できず、辞めてしまう。私の場合で言うと、小学校のときの先生はあんまり意識してやっていなかったのかなと思います。授業は確かにおもしろかったけど、それをあえて意識していることはなかったと思います」

―ユニバーサル・デザインをはじめて読んだとき、「当たり前のこと」であるとは思いました。ただ、「あなたは授業ひとつをどうデザインしている?」と問われると、論述的に答えることができないのではないかと思います。
「その心の余裕もないと思います。それをやる時間がないので。月曜から金曜まで子供の相手をして、職員会議とか、事務作業や宿題の丸付けをしたり、土日もそうです。小学校の教員である、私の父親は普通に土曜日も学校に行っているので、それが日本でいう普通。海外を見るから『普通じゃない、異常なんだ』と思ってしまう。大変かもしれないけど、それは隣の芝生が青く見えているだけなのかなと。そういう面もあるし、その反面もっと削減していいところもある。両面を持っているのかなと思います」

―削減というのは、教科科目のことも指している。いま、十代後半、二十代といった若い人たちが口をそろえて言うのは、学生時にお金の稼ぎ方を教えられなかったという意見がある。長谷川さんはこの意見に、どう答える?
「小学校でいえば、その考えは必要ないと思います。なにより大事なのは読み書きです。父親の影響もあるんですけど、小学校でやることが完璧であれば、社会に出ていくうえで全然困らないと思っているので。足し算や掛け算、読み書きは基礎の基本です。中学校ではどうかな・・・、高校になれば工業系や専門学校へ進学したりと分かれていくじゃないですか。高校生になれば発達段階的にも、それは良いことだと思います。でも、小学校はそこじゃない。その前に基礎。お金の稼ぎ方といっても、お金の数え方を知らなければ意味がないので」

―ただ、それに繋がる応用やアウトプットをさせるのは、教員のテクニックだと思う。つまり「授業、楽しいなぁ」と思える授業のデザインのことを言いたい。
「それはあると思います。でも、学校のレベルによります。相手にしている子供たちが、どのくらいのレベルでその子たちのレベルに合ったものでないといけない。難しすぎると、子供たちってやらなくなっちゃう。それはモチベーションが無くなってしまうから。いかにそれを上げながら、教える内容のレベルを上げるかが教員のテクニックだと思います。でも、最初は無理だと思います。」

―教員それぞれのなかに、ここまではできるハードルはあって、これ以上はやらなくていいという設定があるものですか。
「そうしないと、できる子だけができて、できない子が置いていかれます」

―それが、子供が平等化されて個性が伸びない、平均的だと言われる所以だと思う。これについて、長谷川さんの考えは何でしょうか?
「さきほど言った、通常学級のなかでの特別支援教育を絡めて言うと、日本の教育って今からやろうとしている事が今までやってきたことの中に矛盾があるんです。というのも、今まで平等化といって同じ水準で教えようというのがあるんですけど、ユニバーサル・デザインにも「個に合った教育」ってあるじゃないですか。平等なのに、個に合わせた教育をしようって相反しているんです。それを如何に、教員がやっていくことがすごく問題になっている。それに対して私の意見というのは、私自身が教育実習でしか教えたことがないので何とも言えきれないです。ただ、30~40人の子供を一気に教えるって大変で、同じ授業のなかで同じ水準でみんなを分からせることは大変ですけど、これから日本の教育で必要なのは『教えるのではなく、子供から答えをどう言わせるか』が大事だと言われています。答えだけ言っても、子供の頭の中に残らない。それは大学附属の学校の研究授業でよく言われていることで、それを研究予行だけじゃなく通常学校でどれだけできるか。結構、理想論で本当に難しいことですけど、それを如何にできるかは教員の力によるものだと思います」

―ユニバーサル・デザインをはじめて見て、当たり前であるけども、まだまだ考えが足りないと感じました。そこで思ったのが、子供は大人を見ていて、大人は子供に見られている。子供が大人を超えないと、その国は発展しないと自分は思っている。ならば、基準は上げていかなければならない。これについては。
「子供が大人を超えることと、基準を上げることはイコールではないと思っていて、とくに小学校はそうだと思います。ただ、その土台を作るのは小学校だと思います。超えるための考え方とか、基礎基本の力、知識などを小学校の段階で身に付けなければならない。追々、超えていくための力を身に付く場所が小学校で、その時点で超えることはできないと思うし、やる必要もないと思います」

―ここボーフムで、何を学び得たいですか?
「学問的な面で言えば、ドイツの障害児教育は日本と同じで昔は分離教育だったですが、いまは国際的な流れで一緒にやっていこうという流れになってきている。日本と同じ状況なので、国際的な流れにどう対応していくのかを見てみたいです。自分自身の教養として知りたいのは海外の文化で、日本は島国で隣り合っている国がないので、ほかの国がどうなっているのかは出ていかないと分からない。行ってみないとこれだけ実感できないですけど、言葉で伝えるだけでも子供には違うのかなぁという思いがある。日本とドイツの違いとか、逆に似ていること、こういう考え方は素敵だよね、こういう考え方は今はない、とか。私も今、日本ってこういう国なんだとこっちに来て知れている。そんなことを、どれだけ蓄えることができるかな、という感じです」

―ここドイツの教育現場はご覧になられたのですか?
「日本でいう、中学校の段階の現場を見ました。全然違います。子供たちはすごく喋る。ただ、皆が言いたいことを一斉に喋りだすことは一概に良いとは言えない。でも、日本と考え方が違うのは、子供たちから間違いを恐れずにドンドン言う。間違えたとかは関係ない、自分が思ったことはドンドン言っていくことが、日本にはないところです。ただこれを丸ごと、日本でやろうとは違って、間違えることを恥ずかしいとか、恥ずかしいという子供たち同士の雰囲気を少しでも失くしていければいいのかなと。『一目を気にする』って、日本の良い文化でもあり悪い文化でもある。思ったことを言っていかないと頭の整理もつかないし、自分と相手がどう思っているか共有できない。そういう発言の場は大事なので、そういうことを取り入れていきたいです」

―アウトプットして、結果を出すためには競争が必要だと思う。12歳までの社会において、順位付けや得点付けといった競争は肯定派ですか、それとも慎重派なのか。
「私は慎重派です。競争させる必要はなくて、競争させるから、勝ちが出ても負けが出てくる。成功体験をさせてあげられるというリターンよりも、リスクの方が高すぎる。負ける子供のリスクの方が高いし、そういうことをやってしまうと自分の殻に籠ってしまう。ただ、運動会の徒競走で順位付けしないのはやりすぎです。何もおもしろくないじゃないですか。子供たち同士で言い合ったり、子供たち同士で授業を作りあっていけるのは本当の理想論で、私は競争させたいわけじゃない。各々の考え方を持てるようになるのが大事で、それをしていきたいです」

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