見出し画像

東京マラソン

東京マラソンを終えた。6時間58分制限時間ギリギリでのゴール。

身体的にはぼろぼろで、最後の2キロはもはや歩くこともままならず、冷たい雨の中、歩き、止まりの繰り返し。エネルギーを絞りに絞り切った感じであった。回復する今となっては、ふつうに歩けることの喜びを感じている。そして、早く走りたいと思う気持ちが湧いてくるから驚きだ。

マラソンを走っていると色々なことが思い浮かんでくる。その中でも二つだけ記しておこう。

① 自分のあさましさに閉口
東京マラソンの当日、事前の予報とは異なり朝から雨が降り続けることがわかったとき、自分の中にあったのは、好奇心だった。

このきついマラソンの中で、あるいは終えた後、身体的にも心理的にも自分はどういう状態になっているのか。

こんなに追い込まれる、特に身体的に追い込まれる、追い込む経験はないから。走り切った(歩き切った)、やりきったことで自己肯定感を感じていたものの、それに加えて、自分の浅ましさに閉口だ。このマラソンに出ることが決まってから、マラソン関連で思っていたのは、95%ぐらいは自分のことだけだ。どうやって完走するか、完走したあと、リカバリーをどうクイックにして仕事へのダメージがないようにするか。ひざが痛いがどうしよう、とか。

・かものはしとして東京マラソン財団から寄付してもらっていること
・何人かの仲間にチャリティーランナーになってもらったこと
・自分が出場するためにも何人もの人に寄付してもらっていること
・ランニングの練習のために家族や同僚が時間を調整してくれていること
・自分がインドにて「子どもが売られない社会を創る」ために仕事していること

そういったことを考えると、まわりに対する感謝であったり、世の中でもっと頑張っている人がいるのだから自分も頑張って走りぬこうとかそういう気持ちが湧き上がってくるのが「普通」(?)な気がするんだけど、僕の場合は、それぞれ2.5%ずつぐらいしか出てこなかった。95%はただ前に進むことに集中して考えて身体を動かしていたかんじ。

なんたる自己中心的な浅はかさだろう、と自分に対してがっかりする気持ち。こう追い込まれると、自分は自分のことしか考えられない人なんだなあと思う。哀しいけど仕方がない。むしろそれが良さなのかもしれない。このことについては時間をおいてどういうことなのかじっくり熟すように考えたい。

② 応援の大事さ
とはいうものの、特に走っている最中に、応援のありがたさを感じた。

まずは、完走サポートランナーという人たちがいた。(写真の人たち)
その人たちより遅れると、道中に何回かある「関門」の制限時間にひっかかってしまうというもの。この人たちがいて、最初から最後までお世話になった。ペースメーカー的にもありがたかったし、ずっと声をだして「あと何キロ、ふんばりましょう」といった声掛けをし続けてくれたのは本当にありがたいなとおもった。なんていうか、走り抜くために、そういう最後まで一緒についてくれている存在があるのは大きいなとおもい、かものはしでもそういうのって大事だなと思った。

あとは、2か所でかものはしの応援の人がいたこと。家族が2か所で応援してくれたこと。娘が30キロ地点にまっていたので、そこまではなんとか走ろうとおもって頑張れた。意地みたいなもので10m走って10m歩くみたいなことを繰り返した。

そして、かものはしの応援団がいて、そこの瞬間だけ、エネルギーがふわーっと上昇した。その瞬間はエネルギーがふわーっとあがって、これは余裕で完走できるだろうなと思った。あれは大きかった。応援の効果を感じた。最後の7キロは冷たい雨の中で、歩いて止まり、歩いては止まりの繰り返しの1時間半だったから、きつかったけど、なんとか乗り越えられた。

この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?気軽にクリエイターを支援できます。

11

keisuke motoki

#スポーツ 記事まとめ

noteに公開されているスポーツ系の記事をこのマガジンで紹介していきます。
コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。