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「人間」の数だけ解釈があるのかもしれない_119

大きなテーマについて小さな人間が書きます。たまにアウトプット欲が高まる時がある。

昨日と今日、偶然の出会いがあった。

まずは昨日の話。

札幌駅に着き、目的地に向かう途中コンビニに寄った。
どうしてもトイレがしたかったからだ。

用を足して、トイレから出ると若い女性店員が近づいてくる。

「KEITA先生ですか?」

びっくりした。

話しかけてもらえるのはありがたいことだ。
だが、街中で若い女性にいきなり話しかけられるとびっくりする。

2、3分話をした。
2人で笑ったのだが、数日前、別の卒業生が働くカフェに行ったことをインスタのストーリーであげていたときに「今度私が働くコンビニにも来てください」と話をしてもらっていた。

こんなに早い回収をすることになるとは笑

本当にたまたまその店に入って、
たまたま会った。
元気そうで安心した。

人間のつながりは不思議だ。

今日の話。
出張でホテル泊だったため、
普段は見ないテレビを見ていた。

今日の占いカウントダウンで
「古い友人とうれしい再会。思い出話で盛り上がろう。」と言われた。

卒業生かなー(昨日もあったし)
同級生に会うのかなー
なんて思ってホテルを出た。

午前の研修が終わり昼休み。
元同僚に会った。
思い出話で盛り上がって別れた。
元気をもらった。

その5分後。

午後の研修を受けるためにエレベーターに乗った。

その時、私の左側に立った男性のネームプレートが目に入った。

「あれ、この苗字。私が中学校1年生の時の教育実習生と一緒だ。顔もちょっと似ている気がする」
なんて思っていた。

するとその男性は講師だった。

研修中も
「やっぱり顔似てるよなーたしかサッカーやってたんだよな、あの先生」
と思っていたら、講師の方がブラインドサッカーの話をし始めた。

ほぼほぼ確信した。この人はあの人だ。

研修が終わり
「もし違ったら申し訳ないのですが、〇〇さん、△△学校で教育実習されてませんか?」
と聞いてみた。

「え、そうだよ!⬜︎⬜︎先生のクラス」

「私、そのクラスの生徒でした」

「えー!すごい!」

この会話から2、3分話をした。

なぜかこの先生のことは覚えていた。

苗字が珍しかったことはもちろん、
国語の先生だったこと、
靴がadidasの白黒だったこと、
炊事遠足に遊びに来てくれたこと。

中学生の時にたぶん直接話をしたけど、
中身は覚えていない。

向こうは私のことは覚えていないけれど、
私は覚えていた。

人間のつながりは不思議だ。

私にとってこの2つの出会い(再会)はとても嬉しいものだった。

最近思っているのは、

「起こっていることは1つだけど、その解釈は人の分だけあるのではないか」

ということ。

例えば人によっては、
卒業生に話しかけられることを嫌がるかもしれない。

天気が雨だったら
「せっかくのお休みの日なのに雨かぁ」
とがっかりする人もいれば
「最近雨が少なかったから農作物にとって恵の雨だ」
と喜ぶ人がいる。

いい天気
という言葉を見て
「晴れ」を想像する人が多いかもしれないが
「雨の日の方が森の中を歩くのが気持ちいいから雨がいい天気。」と考える人もいると思う。

だから何かが起きた時に
人間は自分の価値観のフィルター(生育環境や性格、その時の気持ちや作り上げてきた価値観)を通して解釈をしていると思う。

起こっていること(ここではこれを事実という)を正確に把握できているつもりの私もあなたも、実は正確には捉えられていないのかもしれない。

だからどうすればいいということはないのだけれど

どうせならプラスに解釈できるように行動できたらいいなと思っている(ただし無意味に人を傷つける人もいるのでやばいと思ったら逃げるに限る、と信じている)

人間はある意味自分勝手に世の中を解釈しているのかもしれないな、という話でした。

明日はどんな出会いがあるのかたのしみだ。




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