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本場でない場所で物事を愛好すること(Schoolboy Q『Blue Lips』感想)

「本場でない場所で物事を愛好することはどういうことなのか」。

これは『トーフビーツの難聴日記』に書かれていたラインだ。Schoolboy Qの最新作『Blue Lips』を聴いて同じことを思っていた。自分はこのアルバムがすごく好きだ。ヒップホップというフォーマットの中に、アメリカのブラックミュージックのエレメントーーブルーズ、ジャズ、ファンク、ロックが散りばめられ、Low End Theory(古いかな笑)でかかってそうなLAのビートミュージックの芸術性もあって、同時にストリートの危険さを感じた。リリース前に公開されたティーザーもかっこよかった。今後発表される映像のメイキングなどをコラージュした1分程度の短い映像だけど、とにかくセンスが良くて、しかも煽りというティーザーそのものの機能も果たしていて完璧だった。「Yeern 101」のMVもとんでもなかった。無地の白ティをブラックのパンツのインして、ブルーのキャップに大粒のパールのネックレス。Schoolboy Qは普段からパールのネックレスをしてないだろうけど、普段着っぽいのがかっこよかった。あれで全身ハイブランドとかだとイケてない。だからティーザーやMVの芸術性も、彼の日常や美的センスの延長線上にあるように思えた。

詳しくは知らないけど、Schoolboy Qはギャングのメンバーだったって。今はどうなんだろう。フッドにギャングの友達がいて、そいつと仲が良くて、自分もギャングに入る、みたいな感覚なのかな。前の文章の“ギャング”を自分の身近な何かーー“野球部”とかに置き換えたら、それは日本でも普通に起こりうると思う。

現在の所属云々はともかく、Schoolboy Qほど有名なラッパーで元ギャングを公言してるなら、めんどくさい人が寄ってくると思う。ラッパーになりたいギャング、ラッパーの威を借りたいギャング、利用しようしてくるギャング、かつて所属してたギャングと敵対してるギャング……。ちょっと想像するだけでこのくらい思いつくから、実際はもっとウルトラCなムーブからちょっかい出されるように思う。

そんな環境でどうやったら『Blue Lips』のような芸術的な音楽を作れるんだろう。文化の違いはあると思う。そもそもアメリカの黒人ギャングは白人社会の中での自衛を目的に公民権運動の流れで結成されたと聞く。そうなると、日本人の我らが想像する現在の典型的な“ギャング”像とは趣が異なってくる。黒人社会の中では非常に身近で、おそらく日本社会では置き換えられるものがない。

さらに言えば、本作に散りばめられたブラックミュージックの意匠も、そう遠くない近現代に彼ら自身が生み出したもので、おそらく日本人である我らが聴く感覚とはまったく異なるはずだ。

アメリカのポップミュージックは世界で最も影響力があるため、彼ら彼女らのありようがスタンダードではあるのだが、それは外から見る以上に複雑であるように思う。そこで、今年の頭にナタリーの企画「パンチライン・オブ・ザ・イヤー」(https://natalie.mu/music/column/562607)で渡辺志保さんが「ヒップホップカルチャーにおいては、私たち日本人は常に主役ではなく、ゲストであるということを意識せねばならない」という言葉を思い出したり。

とはいえ、このインターネット時代に自国文化に固執するはナンセンス。かっこよかったり、おもしろい音楽はどんどん聴くべきだし、やりたい人はやるべきだと思う。ただことヒップホップに関して言うと、そもそも本場アメリカがめちゃんこ複雑な歴史の積み重ねの上で成り立ってて、しかもライフスタイルを表現するカルチャーだから、表面的な技術はともかく、どうしてもトーフさんが書かれていた「本場でない場所で物事を愛好することはどういうことなのか」という所見に至るのである。

自分的にはプラスワンモアすることがマストなのだと思う。しかしそれは口で言うほど簡単なことではなく、とてつもない内省と客観性が必要で、かつアウトプットするのも相当困難だろう。それらを踏まえて自分がチェックしてる範囲で「これはめちゃんこ日本のヒップホップだな」「こういうことだよなあ」と思ったのはCreativeDrugStore『Wisteria』だった。

『Wisteria』のキモは「仲間」と「ヒップホップが好き」だ。これらはどの国であろうと、ヒップホップをやる理由になりうる。ただ擦られたテーマでもあるから、面白い作品にするためにはあらゆる角度からの工夫が必要だ。

本作が傑作になったのは綺麗事だけじゃない友達像のディテールが表現されていたことにあると思う。最近公開されたインタビュー(https://fnmnl.tv/2024/03/19/158352)を読んで、あのアルバムが成立する背景には彼らのとてつもない歴史があったことを知った。別にドラッグやバイオレンスがなくても、ライフは十分にドラマチックであることを教えてくれた。

さらにBIMは自分のインタビュー(https://kendrixmedia.jp/article/2903/)で「音楽を作る時、会議っぽい真面目な雰囲気って俺は意味ないと思ってる」と話していた。これをかっこよく言い換えると「場のバイブスを大事にした」ということになるが、言い換えず自分の言葉で語ったところにBIMのすごみを感じた。今作は日本のありふれた日常の無意味に思えるひとコマを、ラップでカッコよく意味あることに再構築したユーモアあふれるアルバムである。これこそプラスワンモアであり、「本場でない場所で物事を愛好することはどういうことなのか」のひとつの答えだと思った。

日本で『Blue Lips』と同じ深度の作品を作るのは難しいだろう。おばあちゃんが当たり前にアレサ・フランクリンを聴いてる国ではないから。だがCDSのような作品はアメリカでは生まれてこないだろう。また『Blue Lips』の話で言えば、ヤクザ、暴走族、演歌、歌謡曲、J-POP、アニメ、マンガ、和彫り、お祭りといったモチーフを落とし込んだLunv Loyalの『Loyalty』も傑作だったと書き記しておく。


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