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ソレデモマタアルク

運動神経は良い方だったと思う。
小学生高学年から中学にかけて食うにも困る生活で、中学生になった時の体重は20キロちょっと。
「30kg超えたらお小遣いあげるからね」とすでに離れ離れとなっていた祖母に言われていた。

ただ体重は無くとも、朝夕と新聞配達をしながら異常なほど身体を鍛えていた。
貧乏でガリガリの男がすがる事が出来るものは筋力しかないと思っていたからだ(笑)


気がつけば片手懸垂や、人差し指一本で懸垂や腕立て伏せが出来るようになり、体育館のステージに助走も付けずに真上にひょいとジャンプして乗れるようになっていた。
体重の軽さによってなせるワザ。

学校の4階から1階まで、階段を一度も踏まずに6歩で降りたこともある。
4階→踊り場→3階→踊り場→2階→踊り場→1階到着。
片手を右側の手すりにかけて、棒高跳びと似たような感じで足を前に出しながら、身体を反転しつつ飛び降りる。以下繰り返し。

飛んでいる間、身体に羽根が生えて自由になれた気がしてた。

部活をやるお金がないのは知っている。
だから学校から帰って夕方から夜中まで働いて、バイトが休みの日はパチンコで稼ぐ。
競馬でいつもスッテンテンにされていたけれど、部活をやって母に負担だけをかけるよりはずっとマシだ。自分で飯は食えたのだから。

バイト先に先生が来たこともあるし、パチンコ屋でばったり先生にあったこともある。
というか先生に「ちょっと箱取って貰えます?あ!お前!」と言われたことも(笑)

俺がどういう家庭環境なのか、みんなよく知っていたので黙っていてくれた。
停学や退学にしたところで何も変わらないし、何も解決しないのもみんなわかってるから。
学校では怖い先生と知られていたけど、その時は「・・・頑張れよ」とたった一言だけ。
頭を下げて自分の台に戻った。(2つ隣の台だが)

何かになりたいなんて思ったことはない。
何度も書いてきたけれど、普通で十分。それで上等。
何度か体育教官室に呼ばれて「スポーツやってればなぁ・・勿体ないなぁ」と嘆かれたけれどそれは仕方のないこと。

この丈夫な身体さえあれば贅沢は言わない。
卒業しても今度は社会を飛び回るだけだ。


そして19歳ももうすぐ終わって20歳になろうかという頃、事故にあった。


ブラックアイスバーンを読みきれなかった俺のミス。
ところどころ道路が凍り始めていて、スリップとグリップを繰り返した。
車体が流れて逆ハンドルを当てたら突然アイスバーンがなくなり、グリップを急激に取り戻す。当然車体はあらぬ方向に飛び出す。
ハンドルを元に戻しブレーキを踏んだら今度はアイスバーン。
アイスバーンと普通の道路の混合。しかも見分けは全くつかない。
そうなるともうパニックだ。

そうして俺の身体から羽根はもがれた。もう飛べない。

学校を卒業して1年半。
当初は受け止めきれないというより「もしかしたら徐々に良くなっていくんじゃないか?」と思っていた。

突き指した時や火傷した際に「早く痛み取れないかなぁ」とみんな考えると思う。
大抵の怪我は治療していれば時間が解決してくれる。

それが絶対にないんだとわかり始めて、徐々に絶望に変わっていく。

突き指で腫れた指が一生そのままだと知ってしまったようなもの。
火傷で痛む皮膚がこのまま一生痛みを放ち続けると知ってしまうようなもの。
頭が追いつかない。19、20の歳じゃ理解が出来ない。
俺はついこの前まで階段を飛び降りていたんだ。

入院中、夜中に車椅子でトイレに向かう。
腕の力で便器にしがみつくように無理やり立った。
トイレは洋式トイレを使うようにと言われていたが、俺は立ってしたかった。自分の足で。

グラグラと揺れる身体を腕の力でなんとか抑え込んで、小便をあちこちに撒き散らしながら誰もいないトイレでひとり泣いた。

飛ぶどころか立つことすらままならないのか。
「リハビリすれば15年くらいは歩けるようになる」
本当か?と今度は笑えてきた。


ギプスが外れた脚は細い棒のよう。
事実手首よりも足首の方が細く、その見た目は腕が尻から生えてるようだった。
しかもそれが伸びも曲がりもしない。やはりただの棒だ。

リハビリは地獄。
曲がらないものを曲げるんだから当たり前。
感覚的には力士の股割りに近い。(もしくは指を反対側に曲げて、手の甲に付くまで毎日引っ張り続けるような感覚)
無理やり機械で関節の可動域を拡げて行くんだけれども、180度開脚をする機械に脚をベルトで固定されてスイッチをオンにするのと同じような感覚。

そんなことをしてると、移植した靭帯を固定していたピンが皮膚の下から飛び出し、もう一度手術することになった。(その際に右脚と左脚の麻酔を間違えられてしまい、麻酔無しで手術することとなった。)

もう治ることはない。
痛みは一生つきまとう。
地道すぎるリハビリ。
繰り返される拷問。

これだけやって俺は15年間だけ歩ける。

この現実に打ちのめされ、日に日に感情が失われていく。
いちいち何かを考えていても仕方ないし、ただ毎日やるしかない。
食事を摂ることも億劫になり体重は40キロを切った。

それでもやらなければそのままだ。
いくら歩幅が小さくとも、その一歩を前に踏み出さなければ前には進まないのだ。


「辛いかい?」とある日執刀医が病院の廊下の端っこで話しかけてきた。
毎日夕方に窓からぼーっと外を歩く人を見ていた。
辛いに決まってる。
だから何も言えずにいた。

「恨んでるでしょ」麻酔なし手術をしたのもこの人だ。
正直恨んでないとは言えない。痛かったしな。
でも15年間だけ歩けるようにしてくれたのもこの人のおかげだ。
これからどうなるのかもわからないが。
グッチャグチャの感情を押し殺して車椅子からヨロヨロと立ち上がり、ボソッと一言。

俺はそれでもまた歩く」

先生にこう言った事を未だにはっきり覚えている。
紛うことなきこれが本心だ。そう言ってから2~3歩だけ歩いてみせた。
それが今できる精一杯の恩返し。もうやるしかない。

「・・・頑張れよ」と一言だけ言って去っていった先生の顔は、パチンコ屋で偶然あった学校の先生と同じ顔をしてた。
多分どちらの先生も俺に対する感情は同じようなものなんだろう。



そんなやり取りをしたというのに、俺はある程度歩けるようになったところで退院してリハビリからあっさり逃げた。
だって辛いんだもん(笑)

おかげで事故以来一度も正座はできていない。
膝は完全に曲がらないままだ。だから和式便所も無理。
1時間歩いては5分の休憩と言われてた脚は、今は10分歩いて5分の休憩が必要。
それでもまだ歩けるだけマシだろう。きちんとリハビリしていればもっとマシだったのだろうか?

そして15年というリミットだが、20年近く経ったある日、背の高い車の助手席からポンと軽く飛び降りた時にパチーンという音を立てて終焉を迎えた。

左膝はもう手術前以上にグラグラで、膝から下は小さな竹馬に常に乗っているような感覚。
一歩歩くたびにバランスを考えながら左足を着地させている。
いける!よし・・・いけるか?よし・・・この繰り返しで前に進む。
少しでもバランスを崩せば膝が外れて大惨事。

それでもやはり俺は歩く。
歩みを止めて筋力が衰えた時が本当の終わり。
今は筋力で膝関節が外れて壊れるのを防いでいるようなものだ。

歩くのをヤメた時が歩けるのが終わる時。

まあ泳ぐのをヤメたら死んでしまうマグロよりはなんぼかマシか(笑)
そうして俺はまた散歩に出て酒を飲んで、警察に捕まっては脚の傷を見せていちいちこれらの説明をするのである。
明日歩くために今日歩いてるんだと。


追記
ちょっと暗くて重たい話なんだけど、俺にとって避けては通れない問題なので・・・。
入院生活やリハビリに関しての色々な話もあるから、まあそのための通過儀礼ってことで(笑)

ちなみに趣味が本文にあるように酒飲みながらの散歩なんだけど、俺はこの脚でめっちゃ歩きます。
タクシーのメーター5000円分くらいかかる距離も歩きます。
ただし杖をついた腰の曲がったジジババに軽く抜かれるくらい遅いのが悲しい。

今考えたら10km位の距離を歩くのに10時間以上かかったので、時速1km以下だな(笑)



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