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5%に宿るもの

ふだんはコーヒーのことはほとんど書かないのだけれど、新年だし、想いのようなものを少しだけ書いてみようと思う。

僕はコーヒー豆の焙煎を仕事にしている。焙煎機と呼ばれる専用の機械を使ってコーヒー豆を焼く行為だ。

火の加減や排気量が調節できて、工夫次第で様々な風味に焼き上げることができる。生豆の種類や状態、室内の気温や湿度などなど、様々な要因を考慮して焼く、というとすごく難しいことのように感じるかもしれない。

でも、実はそうでもない。実際、お店で焙煎のワークショップをしているので月に何回かは「はじめて焙煎機に触れる」という人に焙煎を体験してもらうのだけれど、横で説明をしながら焼いてもらうと、よっぽどのことがない限りみなさんとても上手に焼き上げる。味見をしても美味しい。すぐに販売できるくらいだ。

もっとしっかり数回説明をすれば、すぐに安定して焼けるようになるはずだ。僕の感覚で言えば、僕のやっていることの95%くらいはその時点で伝えることができる。風味も95%くらいは同じものになると思う。(お前の100%がなんぼのもんじゃい、というご批判はもっともですが、今回はご容赦ください)

95%同じであれば、正直その風味の差はほとんどの場合わからない。ほとんどの場合わからないから、「同じもの」として扱ってしまっても問題は起こらない。プログラミングしたらあとは全て自動で焙煎してくれる焙煎機が存在していて、それで十分美味しく焼けるのもそのためだ。

で、「残りの5%は?」ということなのだけれど、これは言語化するのが難しい。「なんとなく」とか「感覚」としか呼べないような類のものだ。僕は「言語化」が好きで、科学的表現や文学的表現などを駆使して、できる限り言語化したいと思っている。それでも、行為全体の5%くらいはどうしても「曖昧なもの」が残ってしまうのだ

「神は細部に宿る」という言葉がある。

いわゆるクリエイターやアーティストと呼ばれる人たちは、周りの人が見たらもう完成していると思うようなところから、さらに多くの時間を費やして、その最後の数%にこそ、その人の技術と熱量を注ぎ込んでいるのではないか。たとえそれがほとんどの人には認識できない小さな向上であったとしても。

僕は、コーヒー焙煎家としての仕事はこの5%にこそあると思っている。95%の部分はいくらでも伝えるし、企業秘密的なものは何もない。聞かれたことにはなんだって答える。

ただ、どうしたって言葉にできない5%に宿るものがある。そう信じて、今年もコーヒー豆を焼きたいと思う。

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