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本屋さんと僕

週末、写真家・平野愛さんが私家版写真集『moving days』刊行に合わせて全国の本屋さんで開催してきた写真展のグランドフィナーレイベントに参加してきた。

僕たち夫婦は、この写真集に被写体として登場していて、そのご縁でいくつかのイベントにトークやコーヒーで参加させてもらった。『moving days』は、僕たちの2018年を彩るとても大きな存在となった。

グランドフィナーレの会場は、大阪の『Calo Bookshop & Cafe』。大盛況のイベント終了後、打ち上げでは全国から集まった本屋さんや編集者の方々と話をして、とても楽しい時間を過ごした。

その中で話し、考えたことを書き残しておこうと思う。それは、『僕にとっての本屋さんの存在とは?』というものだ。

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本屋さんにとって本は商品である。でも、それはとても不思議な商品だ。それを買った人がどんなことに興味があるのかを知ることができる、つまり、少なからず頭の中をのぞき見ることができるものだ。僕たち本を買う側の人間からすると、本屋さんに頭の中をのぞかれているように感じる。そんな不思議な商品が他にあるだろうか。

僕は本と本屋さんが好きで、色々な本屋さんで本を買うけれど、大切にしたい本の多くは、いつも隣町にある『長谷川書店水無瀬駅前店』で買っている。長谷川書店の棚には僕の欲しい本がたくさんあるけれど、棚に無い本が欲しいときには長谷川さんにお願いして取り寄せてもらう。

ネットで買えばすぐに届くのに、なぜわざわざ取り寄せてもらってまで長谷川書店で買うのか?長谷川書店の売上に貢献したいから?そうではない。そういう感情が無いわけではないけれど、それ以上に、僕は長谷川さんに僕がいまどんな本を読んでいるのかを知っていて欲しいのだ。だから大切な本は長谷川書店で買う。

自分の興味のあることをみんなに知ってほしくてブログやSNSなどにアップして知らせるということがあるけれど、僕は直接それを長谷川さんに知らせている感覚に近い。だからネット購入ではダメなのだ。“長谷川書店で買うこと“、その行為自体に、その本を買うことにプラスした意味があるのだ。

そうなってくると、僕にはひとつの感情が生まれる。「長谷川書店ではヘタな本は買えない」、となるのだ。誰だって少なからず〈賢いと思われたい欲求〉はあるものだと思うけれど、これだけ頭の中をのぞかれていたら、なおのことくだらない本は買えない。恥ずかしいもの。

これは一昔前の思春期の小中学生たちが、エッチな本を買うために遠くの町の本屋さんまで行っていたことと通底するかもしれない。顔馴染みの本屋さんでそんな本は買えるわけない。

僕は思うのだけれど、ネットが無い時代、いつも同じ町の本屋さんで本を買っていた時代には、人々は本屋さんに頭の中をのぞかれているという感覚を持ちながら本を選んでいたのではないだろうか。そしてそのことは、少なからず人々に〈賢く見えそうな本〉に手を伸ばさせていたのではないだろうか。そうして結果的に、人々を賢くさせていたのではないだろうか。

町の本屋が町の文化水準を決める、と言われる。それは、本屋が本という知識の宝庫と出会う機会を与えるからだ、と言われてきた。でも、僕はそれだけではなくて、〈本屋さんにいつも頭の中をのぞかれている〉という感覚を人々が持っていたことも影響しているように思う。ネットで、誰にも知られずに買うならば、気兼ねなくくだらない本、頭の悪そうな本も買える。でも、顔馴染みの本屋さんではそうはいかないのだ。

町の本屋は、そうして町の知的水準を保ち、文化を守ってきた。とひとりの本好きは考えている。少なくとも、僕にとっては本屋さんとはそういう存在なのだ。

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今回書いたことは、同じ平野愛さんのイベントで広島の本とうつわのお店『READAN DEAT』に伺ったときに最初に考えたことで、それを先日の大阪での打ち上げで、『READAN DEAT』の店主である清政さんを交えて話したことで整理したものだ。しかも、その場には雑誌『SAVVY』最新号の本屋特集で長谷川書店を取材した編集者の竹内厚さんもいたのだから、その巡り合わせに驚く。

竹内さんとは長谷川書店の魅力、凄さについて話が盛り上がった。「僕がこの町に住んでいることは、本当に幸運だ」ということで、間違いないようだ。ラッキー!

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