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〈売り手の思想〉としての価格決定

ある商品の『価格』はどうやって決まるのか、もしくは決めるのか?という問題は、経済学にとってはいつだって重要な論点だし、事業を経営する人にとってはいつだって悩みの種だろう。

資本主義を研究中の僕にとっても、それは興味津々なテーマだ。
そんな中で、ふたつの面白い記事を読んだ。

一つ目はセキネトモイキさん(Nokishita代表 / ドリンク ディレクター)のこちらのブログ。ぜひ読んでほしい。

ここでセキネさんは、〈価格を客が決める〉という試みについて紹介している。その結果として売上は上がり、”『価値』を生み出すことによりフォーカスした考え方になった”と売り手側の意識も変化したと述べている。(それにしてもセキネさんの思考にはいつも刺激を受ける。ありがたい。)

もうひとつは、こちらの記事。拡大しつつある〈ダイナミック・プライシング〉に関する文章。

ビッグデータとAI(人工知能)の活用により商品の「需要と供給」を予測し、”最適な価格を自動的に、より高い精度で割り出せるようになった”(リンク先より)という内容だ。より合理的で、無駄のない価格設定。この動きは広がるだろうし、実際、売上も上がるだろう。

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紹介した二つの文章には、主たる内容は異なるけれど共通する部分がある。
それは、〈価格決定の外部化〉という点である。セキネさんは価格決定を客に外部化し、ダイナミック・プライシングではAIに外部化(より正確にいうならば、厳密な「神の見えざる手:需要と供給」に外部化)する。

僕はここで、〈価格決定の外部化〉で抜け落ちてしまうある点が気にかかる。それは、〈売り手の思想〉である。

〈価格決定の外部化〉は、価格の決定権を売り手から遠ざけることを意味する。それは同時に、価格に〈売り手の思想〉を反映させることを難しくする。

〈売り手の思想〉とは、すなわち、「この商品はこの価格で買われるべきだ」という「売り手からの価値の提案」のことである。その価格が、実際の店頭や市場においていわゆる”適正価格”となるとは限らない。高すぎる・安すぎると思われることもあるだろう。でも、売り手には「売れなくてもいい。それでもこの商品にはこれだけの価値があるんだ。」と言い続ける権利がある。

「売れなければ商売は続かない。続かないものは無意味だ。」という人もいるだろう。でも、続けるか続けないかはその人の自由だし、ある芸術作品が数百年後に価値が認められることがあるが、その作品は無意味なのだろうか。また、他の商品で十分な売上をあげているので、その商品は売れなくていいからその価値を提案し続ける、というケースだってあるだろう。

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セキネさんのように、客に価格をつけてもらうことで自分の生みだすものの価値をより高める方向に向かうこともある。僕はセキネさんの挑戦を楽しみにしている。

一方で、その商品がどのように生み出され、どのような技術が使われていて、どのような想いが込められているのかを買い手よりも知っている売り手が、その価値の提案を容易に辞めるべきではないとも考えている。

流行りや消費者のニーズだけで価格が決まってたまるか、ということだ。

いま僕がハマっている「Official髭男dism」の歌詞を借りるならば、

”時代の声に責め立てられる筋合いはない”

ということだ。

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