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好きとか、嫌いとか、愛とか

なんでこんなことに思いを巡らせてみたかというと、私はWEB上に、割と赤裸々な感情を書いてしまっているという自覚があって、特に娘に対して、これは将来問題になることがあるだろうか?と考えるときがあるからです。

noteを書いていることは、誰にも話していませんし、本人が特定される情報は記載していないつもりですが、知っている人が読めばすぐに我々のことだと結びつくくらいにはディテールをちりばめていると思います。

そんなことを心配するくらいなら、まずはアイコンの顔写真をやめればよいとも思うのですが、ここは文章を書く覚悟といいますか、責任といいますか、本人の目に触れたときに、撤回しなくてはいけないような発言はしないための砦として今のところ変えずに至っています。匿名性を利用して何かを意図的に発信していない証、とでもいえましょうか。

ですから、一時的に負の感情を露わにすることはあっても、全体を通してそこに憎しみや恨みを込めた感情はないかと自問自答するわけです。

私個人を特定できてしまった方がありましたら、どうか、私の文章に登場する人物の言動については、私が一方的に一部分を自分が文章に埋め込みやすいように切り取っているものであることをご理解ください。
そして、そっと知らん顔を続けていただけますと幸いです。


それで、話を元に戻しますが、必然的に話題の中心となっているツムギに対して、すべての根底に愛があるのだろうか?と常に自分の心の中をほじくり返すわけですが、私のnoteにコメントを寄せてくださる方々のメッセージを読む限り、私の自覚とは別に、ツムギへの愛を感じてくださっているご意見が大半であるとみえるので、そこについては少しだけ、安心を持っています。

みなさま、ありがとうございます。

ただ、そんな他人任せな指標ではなく、自分の本心はどこにあるの?と考えるうちに、果たして、好きだとか嫌いだとかの感情とはなんぞや?と考察してみたわけです。

好きな理由、嫌いな理由。

それは人でも食べ物でも音楽でも、明確にこれ!と言える部分もあれば、なんでだかわからないけど…といった、曖昧な感覚もあると思うのです。

自分がハッキリと自信を持って愛していると断言できる姉や夫でさえ、共に過ごしてきた時間の中で、大嫌い!と言い放った瞬間は一度ではなかったと思います。(さすがに面と向かってではないと思いたいですけれど)

好きや嫌いという感情は、その対象そのものではなく、その対象に起因した事象に対してその都度心が判断している概念であって、その『好き』の頻度が高ければ結果的に総合判断で『好き』、反対も然りと認識しているに過ぎないのではないかというところに辿り着きました。

だから、その対象であるツムギが、何者であるかわからない上に、著しく成長という変化を繰り返す中で、私が『好き』『嫌い』の間を行ったり来たりしていて、じゃあいったいツムギのことは好きなの?嫌いなの?と問われても、明確な答えが出ないのは、さほど心配することではないと腑に落ちました。

では、そこに愛はあるのか?になってしまうのですけれど、『愛』というのもなかなか抽象的で、自分自身よくわからないので、逆説で『憎しみ』や『恨み』はないか?と考えると、こちらの方が自覚しやすいと思います。

ツムギに対し、躾と称して物申す『負』の事柄について(私が注意をすることを取り上げれば、常にツムギにとっては『負』に感じるであろうという前提です)、意地悪心が顔を出すときがあります。

例えば、

ツムギは自分の部屋の目覚ましを起きられもしない時間(仮に6:30)と起きようと思っているだけの時間(仮に7:00)にセットする癖があります。

実際に起きるのは7:45だったりするのに。

ツムギに聞けば、そうやらないと起きられない!と主張します。


睡眠の知識をツムギよりも持っていると自負する私は、だから7:45にしか起きられない、だから登校時刻に間に合わないと思い、よかれと思って、目覚ましのセットを変えたら?と提案します。


それでもやっぱり変えなかったときに、たまにそっと6:30のセットを解除してしまうことがあります。
身体にその感覚を覚えさせてほしいとの考えと、仮にそれで起きれなかったら起こしてあげようというつもりがあってのことです。

ただ、またかよ。と思ったときに、イラッとして、両方解除して、大遅刻しちゃえばいいのに!と意地悪が浮かぶこともあります。

大遅刻を経験させて、自分で恥をかいてみるという教育方法もあると思いますから、意図があってやることは(正解か不正解かは置いておいて)除くとして、あくまでも、自分が意地悪を付け足してしまったかどうかです。

意地悪を思いついた!とわかっていることに関しては、どんなに腹が立ってもやらないと決めています。

勢いに任せて一時的にやってしまっても、冷静になってすぐに元に戻します。


とすれば、自分が行なっている行為の根底には、言葉で言い表すところの『愛』があると言っていいのではないかと着地するのです。


『心』という目に見えないものは、ときに『言葉』に振り回されてしまいます。


先日、自分は母親不適合者ではないかと悩む友人に、「こどもに愛情を持っていないのではと悩んでいるけれど、悩むほど関心があるじゃない。その関心=愛情であると広義で捉えれば、そこには愛情があると言えると思うよ」と、私自身が悩む中で腑に落ちた考えを伝えたところ、彼女は甚く安堵したようで、何度も何度もその言葉を聞けてよかったと話していました。

そして、自分とこどもとの関係だけでなく、長年引っかかっていた、自分と母親との関係においても、スッと心が軽くなった。とも。


なんと、『母親からこどもへの絶対的な愛情』という言葉に苦しめられている人の多いことか。

身近な彼女が話してくれた不安に、私だけではないのかも知れないという思いを、更に強くしたのでした。


たまに思考の旅をすると、モヤモヤを解く糸口が見つかったりするので、ときどきこうして答えのわからないことに、思いを巡らせたりするのです。

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