「批判力」とは…

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190710-00010000-abema-soci&p=1

私は、別に学校だけが全てとは思わない。しかしながら、この子やこの子の家庭の在り方は残念ながら褒められたものとは言えない。

必要ならば身を守るために行動することは間違いではないが、学校に対して批判をする人間が、その学校すら行っていない…というのは、批判ではなく、部外者による「単なるヤジ」と同じ。

こういう意見を出すと「では、部外者は発言を許されないのか?」とか「言論の自由が…」と言い出す人間が現れる。
もちろん、「部外者に発言権はない」
もう少し丁寧に言うなら「物事には程度というものがあって、それを見極めた行動が求められる。」ということ。

この子は10歳ですが、現時点で義務教育を受ける権利を自ら放棄している
例えば、未成年者が婚姻関係を成立させる場合、親権者の同意が必要とされる。
ただし、これは初回のみとされる。その後、未成年の間に婚姻関係の解消があり、別の人間と婚姻関係を成立させる場合はその限りではない。

何故か?
社会通念として、一度家庭を築いた人間は例え未成年であっても「一端の大人」とされるから。
つまり、「大人として振舞うこと」を選び、そこへ一歩踏み入れてしまうと、「本当は自分は子供なんだけど…」という事は残念ながら、いかなる理由であっても「みっともない言い訳」となる。
なお、この婚姻に関する行動に対しては、以降の契約関連全てが「未成年者ではない」とされ、法的に成人するまでの間は「みなし成人」という扱いとなる。

もちろん、現行法では誕生後20年の時を迎えれば、「合法的に大人」としてくれるが、様々な理由の下「在学中で社会を知らない」という免罪符は使えることもある。

義務教育はもちろん「親権者の義務」であり、「本人が教育を受ける権利」を約束した上での制度とされる。しかし、それより先にも学びの機会があり、そこへ通うのは「もうちょっと子供でありたい」とか「今の段階だともの知らずにも程がありすぎて…」という、「少なくとも本人に学びの意思があって通学をしている」という正当性が認められる。

では、学校に行くことのメリットは?というと、それは巷で言われているような事ばかりで、それは間違っていないから、触れないでおく。
「人間関係を学ぶ」とか「社会性を身につける」とか「最低限の教養が身に付く」など…

問題は、そのメリットの内容。
これらを言葉通りにだけ受け止めてしまったり、隣の席に座っているクラスメートがやっている通りに自分もやっていく…というのは、褒められたものではない。

「自分の人生観・価値観」に、親だの教師だのは関係はない。

己が一人で生きて、一人で死んでいくためのものだから、全ての責任を負うのは誰でもない自分のみである。

しかしながら、この記事の子供はそれを自ら放棄(親についてはそもそも義務を果たさない状態だが)している。
更にはその状況で「学校教育制度」を批判をする道を選んだことになる。
先ほどの「未成年者の婚姻」の話で考えると、この子は既に「みなしとして義務教育課程を修了した」と言える。

その上で、このような発言をしているとなると…
まず、もう10歳の子供としては扱えない
最低でも中学校を卒業した人間と同じ、しかもその時点で社会に出る人間がいるわけだから、この子は最低でも中卒の社会人ぐらいとして扱うことになる。

既に最低限の学校教育を修了し、その先の高等教育を受けることを望まず、社会に出たわけだから、「立派な大人」として扱うことになる。
つまり、彼の一挙手一投足は最低でも10数年生きて、社会を知った人間のそれと同じとされる。
本来ならもっと長い間子供として言い訳もできるし、大人に甘える事も許されるはずだが、それら全てを有していない存在として、社会は彼に対して「厳しく接していく」ことが筋ではなかろうか。

他所の家庭の出来事ですから、それこそ私は「部外者」として「発言はできない」と思っている。
ただ、国家の構成員として然るべき、権利と義務を親子共々放棄し、世の中に対して批判をするという立派な道を選んだのは事実。
そういう人間たちがどのような道を歩むのかは、今後の社会の在り方、また自分たちの生き様を見つめるための貴重な資料として有用であると考える。

そして、この家族が導き出したものが、現在広く社会通念としてまかり通っているものと比較した際に、優れているものであった場合、この家族こそが正解や模範解答となる。
しかし、そうではなかった場合、それは現在の社会が正しい証明となり、この家族は社会の落伍者となる。


因みに、学校にたくさん通う中で「努力して身につけるもの」であり、それは先の課程に進むほどに求められるのは「社会に対する批判力を持つこと」
学校で習うだけの事は、別に社会に出てそれほど役に立つものは少ない。
しかし、判断材料として手元に置いておいて邪魔になるものではない。

少なくとも、「教育」や「学校」を語るなら、まず己がそこに身を置き、価値観をしっかりと固めることが、結果的に安上がりであり手っ取り早いと思われる。
現時点の正解、不正解ではなく、この国の制度を利用した「学びの方法」とされているから。
制度に批判的でも、制度を利用できるなら、それは利用して得するかは別として、あまり損はないと思う。

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