「直接的でなくても伝わる力こそが真実」という話について。(2017年2月3日のブログ”最近サッカーつまんないと思うならスーパーボウルにヒントがあるかも”のブログこぼれ話)

(さて、もう「こぼれ話ってなんだ」という話は抜きにして始めます。このノートの一個前の記事の冒頭でも読んでください。この記事に対応する表ブログはコチラ→サッカー最近つまんないならスーパーボウルにヒントがあるかも

さて、まず映画の話をしたいんですが、ツイッターでもちょっと触れたように最近遠藤周作原作のハリウッド映画、「沈黙ザ・サイレンス」を見てきて凄い感動したんですよね。で、テーマ的に今回の表ブログの記事にも非常にリンクするので、その話をしたいんですが。(話の性質上完全にネタバレしまくる記述になりますので注意して下さい)

「沈黙」は江戸時代初期の隠れキリシタン弾圧の話なんですよ。フランシスコ・ザビエルの時代には東洋で最もキリスト教を受け入れた地域だった日本が、秀吉・家康の時代に徐々に方針を変えて、特に島原の乱あたりから苛烈な弾圧が始まった頃の話。

主人公はイエズス会の宣教師で、尊敬する自分の師匠にあたる宣教師が日本で拷問にあって棄教したというニュースがショックで、あの尊敬する司祭さまが潔く拷問死するんじゃなくて棄教するなんてありえない!ちゃんと真実を知りたい!・・・というわけで既にキリシタン弾圧が始まっている日本にわざわざ密航してきて、隠れキリシタン村に潜みながら色々と日本社会に触れていくという話です。

と、こう書くと実に陰鬱な映画だし、物凄く「日本が悪者扱い」な作品だろう・・・という感じがしますよね?でも、見た感じはあんまりそういう印象じゃなかったところが凄い良い映画だったなって思ったんですよね。

よくある「戦争犯罪断罪映画」に出てくる「悪者」扱いという感じではない。むしろ・・・監督のマーティン・スコセッシはイタリアのシチリア島関係者の一族(ただし本人は生まれながらのアメリカ人)出身らしんですが、言ってみればあの「ゴッドファーザー」的な感じの、「悪は悪だけど、その悪自体の論理やかっこよさもある」というような描かれ方をされているように私には思えました。

要するに何の正統性も意味もなく単に残虐で悪意に満ちた存在として日本の弾圧者が描かれているわけではない。当時の世界情勢的に欧州の国同士の争いに巻き込まれないために禁教することに一定の合理性があったことは匂わされているし、で、実際に「拷問」はかなり凄惨なんですが、それをやる日本社会についての「ゴッドファーザー的な理解や共感」が結構ある感じなんですよね。要するにある種の「悪のかっこよさ」が描かれている。

印象的なシーンをあげると、いわゆる「踏み絵」を踏ませる儀式がありますよね。キリシタンかどうかを判別するために、あるいは棄教したことを証明するためにキリストの像を足で踏ませる儀式です。で、捉えられた隠れキリシタンの農民が何人か並んでいるところで、代官がやってきて何を言うかと思ったら

「こんなものは形式である。別に体重をかけなくとも良い。足裏が触れる程度でも良い。このクソ暑い天候の中でいつまでも無駄な押し問答をし続けることはお互いにとって良くないであろう。形だけでも踏み、棄教を申し出さえすればお前たちは帰れるのだ。誰も心の中まで強制できるとは思っておらん」

みたいなことを(記憶から再生しているのでこのままではないです)言うんですよね。ちなみにハリウッド映画ですが日本人は日本語喋ってます。

これ、めっちゃ日本やなあ!!!って思って・・・まあ日本人が書いた原作なんだから当然ではありますが、何か日本社会の本質がエグリ出されて目の前にドンと置かれたような感じがしました。

で、結局そこまで代官が申し出ても農民たちは踏まないわけです。一人ひとり「次、●●村のだれそれ、どうじゃ?」とか言われるんだけど全員拒否する。

そうすると、床几(時代劇に出てくる移動式の簡易イスのことね)の上に腰掛けてパタパタと扇子で仰いでいた代官が、はぁ〜・・・とかため息ついて、あとはアゴで指示して去って行くんですね。

で、その農民はもう一度牢屋に戻されるんですが、そのうちの一人だけ「お前はここに残れ」って言われて、で、その残された一人の男と、牢屋の雑務をする下郎さんたちとがナンジャカンジャどうでもいい雑談をしたりしてるんですが、その背後に日本刀を持った武士が寄ってきて・・・・

ズバァ!!!

・・・首が飛ぶ。鮮血飛び散る。牢屋に戻った他の農民と宣教師が悲鳴をあげる。首切った武士は眉一つ動かさず冷静に刀の血を拭く。

っていうシーンがね。。。。

なんか、ちょっとこれを読んでいるアナタにヒカレルのを覚悟の上で言いますが、正直めちゃくちゃ「カッコイイ!」と思ってしまいました。いや、そんなことを言うと相当な人非人みたいだけど。

ゴッドファーザーのパート1の最後、マイケルコルレオーネがカトリックの命名式に出て司祭の前でお祈りの言葉を唱えているシーンの背後で、対立するマフィアのボスたちを次々と部下が暗殺していくシーンがありますよね。

「ああいうカッコよさ」というか・・・多分マーティン・スコセッシも「そういうもの」だとしてあのシーンを描いたんだと思います。単に陰惨な「悪の抑圧者」を描いて告発する断罪映画の一環として描かれたのではないはず。

さっきも書いたようにマーティン・スコセッシは本人はアメリカ生まれながら、両親は一世と二世のシチリア系イタリア人らしく、生まれ育ちや身の回りのあれこれが、「アメリカンにシステム化された世界の外側にあるナマのエネルギー」に小さい頃から深く深く触れさせて来たはずなんですよね。

で、そういうふうに育つと、別に「アメリカンに理想化されたシステム」を拒否したいと思ってるわけでも全然ないんだけど、「そこに入り切らないリアリティ」が自分や自分の大切な人間の人生の中には多分にあって、そして「アメリカンに理想化されたシステムの内側だけで生きられる生まれ育ちの人」が、その「はじき出されたリアリティの中で生きている人」への一切の共感もなしに相当に”無意識の上から目線”で断罪しまくりながら生きていることへの反発や、その反動としての「ゴッドファーザー的なものへの憧れ」や、それでもアメリカ人の自分がアメリカンな理想を諦めずに生きるにはどうしたらいいか?についての真摯な問いや・・・といったものが人生の中に深く息づくはずなんですよ。

「沈黙」はマーティン・スコセッシの「その部分」においてちゃんと日本社会との「同じ目線の共感」があるうえで描かれているので、拷問の陰惨さが続く話の中でも、いわゆる「よくある戦争犯罪断罪映画」のような浮ついたセンセーショナリズムではなく、より深いところで「この歴史的事件があったことの意義」について考えさせられるリアリティが迫ってくる映画だったというふうに私は思います。

で!さらにネタバレが続くんですが、結局主人公は最後は棄教してしまうんですね。いや少なくとも「棄教を公式には宣言」するんですよ。

井上サマっていう老獪な代官が出てきて(映画では言及なかったですが原作小説によると元キリシタンだからキリスト教のことが超わかってるらしい)、で、宣教師自身を拷問するとむしろ喜んじゃうので、そうじゃなくて目の前で「信者の農民」を拷問するところを見せるのが一番効果的なんだ・・・っていうような形で棄教を迫ってくるんですけど。

映画の前半でも、普段隠れキリシタン村で宣教してる農民から、「もし踏み絵を求められたら踏んでもいいですか?」って聞かれて主人公の宣教師はかなり悩むんですよね。それを拒否するとその人は殺されちゃったり下手したら村全体が殺されることになるわけだから。

で、最終的にいろんなドラマがあった上で、最後のクライマックスで主人公は目の前の信者たちを救うために棄教を宣言することを決意するんですが、で「踏み絵を踏まされる」んですよ。

そこで、その「踏み絵のキリスト」が、「迷うことなく私を踏みなさい。それも含めて私の救いの一環である」って幻影の中で語りかけてくるんですよ。もうそのシーンが凄い泣けてねえ。

私も泣いてましたけど、隣で見てた上品そうな老婦人の二人組もハンカチ出してシクシク泣いてました。でね、本当にそうだよなあ!本当の真実ってのはそれぐらいのものでなくっちゃいけないよね!って凄い思った。

なんかちょっと「宗教」の話をしているようで、あまり免疫のない人にはついてこれない話になってるかもしれませんが。

私が普通の意味で「宗教を信じている」かというと微妙なところで、厳密に言うと無神論者的なところもあるんですが。

ただ、経営コンサルタント的な興味というか、「あるイデオロギー的なもの」が「人間の集団」に作用した時にどういう影響の波及効果があるのか?ということについては、スポーツから音楽から経営理論から哲学から宗教にいたるまであらゆる側面から人生かけて興味があるんですよ。

今日本中のインテリが一斉に褒め称えている本「サピエンス全史」でも、人間を他の動物と隔絶してここまで栄えさせた源泉は「虚構を共有できる力」だって話がありましたよね。

キリスト教でも仏教でも資本主義でも共産主義でも良い、さらには例えば”国”というものや”お金”というもの・・・も全部含めて、それは「共有された虚構」であり、それがあることによって人類は身の回り数百人とかを超えたレベルでの圧倒的な相互協力の全体像を生み出すことができた・・・それが他の生き物との唯一最大の違いである・・・という話。

そういう意味においてキリスト教には個人的に物凄く興味があり、キリスト自身が結果として生み出したストーリーの力が欧米文明を基礎づけ、科学や哲学や資本主義システムを作り出し、世界を統一的に運営できる一つの「共有了解」を生み出していることへの畏敬の念は物凄くある。

でね、キリストという形で擬人化するからちょっと共感しづらいかもしれませんが、要するに何らかの「真実的なもの」があったとするじゃないですか。

その「真実」は、形式的な手続き論にすぎない体系の中で、「踏み絵を踏んだからといって消えちゃうようなもの」であっていいはずがないと私は思うんですよね。

で、あらゆる抽象的な「真実的言明」っていうのは「現場レベル」まで落とし込んでくると絶対間尺に合わない部分は出てくるはずなんですよね。

基礎からキリスト教でできている欧米社会ならいいけど、特に江戸時代の東洋の島国にそのまま移植しようとすると、しかも守られた知識人の立場ではなく日々土にまみれて生きている農民の立場まで無理やりに入れ込もうとすると、間尺に合わない部分は出てくる。

映画でも「井上サマ」と主人公が、「農業では隣の畑に移し替えるだけで育たない作物もある。ある場所で栄える作物が別の場所では栄えるとは限らない」と言い、それに対して主人公が「いや、真実というのはどこでも通用するからこそ真実なんだ!」って言い張るシーンがあって、またこれも非常に「日本VS西洋」の根本的な部分が標本模型みたいに提示されたようなシーンだなと思ったんですが。

結果として主人公が棄教した後、井上サマが「お前は俺に負けたんじゃない。どこまでも沼のようにあらゆる木を取り込んでしまう日本という土地に敗けたのだ」って言うんですよね。

でも、そうやって「日本社会に取り込まれてしまい、踏み絵を何度も踏んで、棄教証明書を何度も書かされ、日本人の名前で日本人の妻子を持って生きて死んだ」主人公が、最後まで実は「本人の自覚としてはキリスト教徒だった」・・・っていうような・・・最後どうやって明かされるのかは映画の中で見ていただくとして・・・そういう映画なんですよね。

要するに、前回「全ての愚かしさを丸呑みにする日本的知識人を目指して」という記事で書いたように、日本におけるあらゆる「抽象的な言明」は「現地現物の事情」をどこまでも是認していく泥沼の中に飲み込まれていくわけですけど、「それを飲み込みきっても、真実の論理はちゃんと成立するはずだ」っていうのが「信仰」なんですよね。

小賢しい手続き論的な潔癖さを常に担保していなくても、どこまでもドロドロの現実を丸呑みにしていっても、それでもその先で成立する論理にこそ本当の意味で「真実」と呼ぶ価値がある・・・という世界観。

これって、ある種の「信仰」レベルの思い込みがないとそんな道を歩けないんですよね。手続き論的に真実がちゃんと担保されている世界にいるか、「そんな嘘くさいもんは知らねえ」っていって本当に何の希望もない泥沼の中で現状追認だけをして生きていくのか、どっちかになるのはそれほど精神に「ガッツ」はいらないんだけど、「泥沼を是認しつつその先の真実を求める」っていうのは相当な「ガッツ」がいる。そういう人生を起動するにはそれだけの大柄な視野を支える「ストーリーの強さ」が必要になる。

遠藤周作は「日本人でありながらキリスト教徒であるという物凄い矛盾にナントカ応えを出そうとした作家」と言われるんですが、単純に「欧米社会の中で標準化された手続き論としての議論」だけで事足りる欧米の知識人や、もういっそどこまでも泥沼な現実追認の中で生きていくだけで全然問題ないと感じるタイプの日本人と違って、この「両取り」を考えるということは物凄く「真剣な意味での真実の探求」を必要とする生き方なはずなんですよね。

遠藤周作の作品が英訳された当時、「沈黙」に対する評価は欧米社会で大きく二分されたそうで、凄い作品だ、という声と、あまりにグダグダさを容認してしまっているような世界観がキリスト教として容認できない、こんなのは東洋に宣教される中で変質してしまった邪教みたいなもんじゃないか・・・という批判と両方あったらしい。評価が高いながらノーベル文学賞を取れなかったのはそういう「世界観」の問題があったとか。

しかし、今回のこのマーティン・スコセッシの映画について、南米出身の今のローマ教皇は、欧州型に善悪を峻厳する父なる神ではなく、そこから外れてしまう弱い人に対する慈悲深い神という視点からこの映画を肯定した・・・という記事を最近読みました。

欧米社会の中でも考え方が変わってきた部分があるんですよね。特に欧米の「ちゃんとキレイに運営されている国」出身の人はそれから外れた存在を全部「ノイズ」扱いして生きて行くことができるけれども、南米だったり東アジアだったりシチリア島だったりというその「外側にはじき出されたリアリティ」が溢れているようなところで育った人間にとっては、別にその「きれいなシステムを否定したいわけじゃないが!(これ凄い大事)」それだけじゃ済まないっていうリアリティがなんでわからんのだお前らは!!という不満もまたあったりする。

そろそろ話の流れ的に読者のあなたの中でもつながってきたかもしれませんが、要するにこれが「トランプvs反トランプ」の世界における対立の根幹にあるものなんですよね。

で、トランプ現象の支持者は「ポスト真実」を生きている・・・とか言う批判とかね、それをやるにあたって「俺らは真実をちゃんと捉えているマトモな人間だけどアイツラは全然マトモな話が通じないサルみたいな奴ら」みたいな「言明のモード」を、欧米人にかぎらず日本の「反トランプ」の人はやってしまうわけですけど。

大事なのは、「自分は”ポスト真実モード”にはならずに、ちゃんと真実をベースに生きようとする」ことは外しちゃいけないんですが、その先で「トランプ信者がなぜトランプ信者になっているのか」について、今回の記事で述べたような「善悪を超えた視点」から捉え返すことが、今の人類的な二項対立的罵り合いを超えるためにはぜひとも必要だろうという感じがします。

要するに、

現状の「真実側に立っている人間の認識の構え」自体が、「文明社会の末端やその外側」に生きている人のリアリティを抑圧しているんだという総体的な因果関係

をまずは理解するところから始めないといけない。

これは具体的に言うと、今回の表ブログで使ったこの図↓

で述べたようなことなんですよ。

なぜ日本が今こうなっていってしまっているのか?の原因に、「欧米風の物事の認識モード自体」が関わっているんですよね。そして、トランプだけに限らずあらゆる世界中の「アンチ・リベラル」方向の動きは、見た目良くない性質を抱えているように見えるけれども、実はこの「右側の生き方」をする目の前の誰かとの共有了解を立ち上げたいと願っているだけなんですよ。ただそれ自体をうまく対象化することができないから、排外主義だったり人種差別思想だったりあれこれ良くない「誰かへの抑圧」の形になってしまっているだけで。

ここで大事な発想は、あなたが「ポスト真実でなく真実の内側」で生きられているならば、「そのあなたの認識がクリアーであること」は、社会の末端において「現地現物への自然な結びつきから排除されてバラバラの混乱状態に置かれてしまった個人たち」によって支えられているわけです。

「文明的な啓蒙の光」が「社会の空気」として濃密に共有できている中心地から外れるに従ってその「光」は弱まってくるわけですが、それが弱まっていた末端において「文明の光の作用」だけをゴリ押しすると、「その場」で具体的に協力しあって生きなくてはいけない人々の認識をバラバラに分解して、物凄く抽象度が高い世界認識と直接的に接続した世界観以外を排除してしまう結果、さっき表ブログで書いたように、

「日本の会社って無駄な会議が多くてクソ!」

という方向に人々の感情を強烈に引き寄せつつ、

「自分の会社のこの会議が無駄だから辞めよう」

という方向に身の回りの数十人と協力しあって連携をたちあげていく力を強烈に奪っていってしまうわけです。

映画の中で井上サマが、キリスト教が日本に根付かないことについて自分は自分なりの理解がある・・・という話の中で、

「子を宿す力のない女は離縁せねばならず、そして醜女の深情けは困ったものである」

というような非常に謎めいた言葉を吐くんですね。(子を宿せない女性への差別発言だ・・・という問題はとりあえずおかせてください)

で、おそらくこの意味は、「普遍性を持った共通論理」を人類社会に打ち立てる作用を共有しようとすることはあらゆる人類にとって「利益」になることではあるが、それによって「末端で現地現物に生きる人」の生の満足や身の回りとの自然な連携力や、そういったものを「奪いすぎる」ことがもたらす破滅的な災厄を避ける必要がある・・・という話だと私は思います。

要するに、「人類全体で記号的に共有する価値」を無理やり押し込むために「現地現物の連携力」を破壊した結果、政情不安になって無理矢理な独裁国家でしかまとまれなくなってしまった国が、歴史上沢山あったし今でも結構あるわけです。

「共有論理を打ち立てる意志」を持つのなら、「子を宿す」ところまで責任持ってくれないと困る。つまり「現地現物の人々の毎日の生き様の安定と満足感」のレベルまでリアリティを捨ててしまわずに浸透してもらわないと困る。

そこまで「現地現物と向き合い続ける覚悟」がないのであれば、お互いに「それぞれの真実があるよね」状態で分離しておいた方が良い・・・・というのが「井上サマの謎発言の意味」だと私は考えています。

でね、歴史的に言ってキリスト教を日本は江戸時代に禁教にしたけれども、そして隠れキリシタンを弾圧せずにはいられなかったけれども、ある種の「共通した真理への希求心」自体はちゃんと残ったわけですよね。

それが江戸時代を通じて西洋の文物への興味を政権が持ち続けて、色々と当時の国際情勢や先端的文物についての知識を一応は蓄積させていく契機となった。

要するに、エンジンの回転数を上げるまでタイヤとの間の接続をクラッチで切っておく必要がある・・・ように、「真実というものの扱い方」の精度が十分高まるまでは、一対一対応的な手続き論上の論理だけで末端まで押し通したりすると「末端に生きる人々の毎日」は「思考のソフトウェアが前提とする抽象度」と「毎日にどこまでも現実的な生活のリアリティ」との間が分断されてしまった酷い精神不安・そして社会不安に陥るわけですよ。

だからこそ、欧米社会のように「抽象度が高い領域から完全な記号論理的対応を末端まで押し通そうとする」のではなくて、どこかで「一回切断する」ことの価値も出てくる。

最近、あのテスラモーターズの創業者イーロン・マスクさんの記事を読んでたら、テスラモーターズの生産ラインを立ち上げるためにマスク氏本人がストップウォッチを持ってラインを歩き回ってあれこれやってた・・・っていう話が載っていて、ある意味凄いけどそんなことをしなくちゃいけないならテスラの未来はちょっと暗いかもしれないな・・・と思いました。

いやほんと、そこまでやっちゃう創業者ってほんと凄いとは思いますよ。個人としては尊敬するけれども、よく「時給が高い人間がやるべきことかどうか」っていう話が経営の中で出てきますけど、マスク氏本人なんて「時給が高い」どころの話じゃない人じゃないですか。

自動車の製造ラインみたいにどこまでも「現地現物」的なリアリティが関わっていて、人命が関わるから携帯みたいに多少壊れたっていいやじゃ済まない種類の現場においては、「マスク氏の位置」から、「手続き論的に明示的な論理関係が成立する関係」のままで「製造ラインの工夫」みたいなところまで直接つなぐ組織立てにするのはかなり限界があるはずです。

要するにそれはマスク氏本人から、「客観的に認証された論理の言葉」を話せる人材の範囲内までしか「工夫を載せられる存在」がいなくなる・・・ってことですから、ソフトウェア設計ならそれでいいけど、重さのある現実がどこまでもついてくる製造ラインにおいては「工夫の質量」が全然足りなくなる。あるいはメチャクチャ割高になる。

日本の製造ラインの最も良い部類のものは、「明示的な論理関係で理解し合っている範囲」を超えたところまで「参加」できるんですよね。

要するに、製造現場レベルにおいて、「抽象度が最も高いところから論理的な因果関係をそのまま繋いできた存在」ではなくて、「●●さんの言ってはったこと、なんとなくわかってきましたわ。ほなやってみまひょ」というコミュニケーションで一段深いレベルの人材巻き込みパターンが形成できる。

要するに「踏み絵を踏んでしまう人にまで残る論理」を利用しているわけです。だから、課題の抽象度が高いレベルはそれに向いた人に、そしてどこまでも工夫の質と量の積み重ねが必要な分野は、ある意味で「それ自体に特化した人材」のようなタイプの人に任せて蓄積していくことができる。

勿論将来AIやロボットの利用で一気にテスラの工場が進歩する可能性もありますが、それに対抗してちゃんと日本は日本なりに「AIやロボットの運用」を研鑽していけば、将来にわたって構造的に負けるはずがない分野がここにはあるだろうと思います。

ある個人クライアントがちょっと関わっていて、守秘義務的に細部は言えないんですが、日本の製造現場と「AIとロボット」を組み合わせる先端的取り組みの事例について最近聞いたんですが、マジでほんと凄いです。囲碁やったりポーカーやったりするのは「記号的処理の範囲内」ですが、製造現場のフクザツな動きを全部AIに取り込んでいくには「学歴的に頭いい人だけの範囲内」でやってたんじゃ工夫の質量が足りなくなるんですよね。

そこで「踏み絵を踏んでも残る論理」の世界を生きている人たちとの相互理解を打ち立てて、それを「価値」に変えていける文化を生み出せれば、どこまでも二項対立的に分断されていく世界における「あたらしい希望」を提示できるでしょう。

要するに、欧米社会のシステムの運用が、「現地現物のリアリティの処理」に対して「踏み絵を踏まないレベル」の内的一貫性を維持し続けようとするので、「抽象的論理を司る役割」の人に過剰な権限を付与する反面、「現場レベルのリアリティ」を生きている人から権限や生の実感や満足感を引剥しすぎてしまってるんですよね。

じゃあどうすればいいのか?

一応確認しておきたいことは、冷笑的な態度を取っているようでいて、「反トランプ」的な方向で直接的な批判や行動を起こしている「伝統的なリベラル」の立ち位置を批判したり揶揄したりする気持ちは全然ないんですよ。

実際に「副作用」として抑圧される少数者が出て来る現状は充分考えられるから、それをちゃんと抑止する直接的行動自体は誰かがやらなくちゃいけない。

ジョジョの奇妙な冒険のセリフで言うなら、

「ポルナレフは追いながらヤツと戦う。俺達は逃げながらヤツと戦う・・・つまり、ハサミ討ちの形になるな」

って感じです。

ただ、そういう「伝統的なリベラルの直接的な対処」は、そこにエネルギーを注ぎ込んだ分だけ、それに怒りを感じ抵抗するエネルギーも「同じだけ」盛り上がってしまうたぐいのものであることは、今後しだいに現実的に明らかになっていくでしょう。そしていずれあらゆる人類は望むと望まざるに関わらずその「原罪」的に相互を繋いでいる因果関係に直面せざるを得なくなる。

そうなってきた時に、派手な議論には参加しないし、「直接的行動を取るリベラル」から「不作為の罪」だと批判されていたような立ち位置で、私がこの記事などで述べているような立ち位置から、「日常の考え方のモード」ごと変革を志して生きる人達の価値が、クローズアップされる時代が来ます。

その時には、今の時代「正義」の顔をしている言明も、「露悪的言説」に見える言明も、単なる立場の違いにすぎず、それぞれが自分自身の立場を必死に守って吠えていただけだったことに気付かされていくでしょう。

どんな立場の人にも覚えておいてほしいことは、特に「リベラル側」にいる人に覚えておいてほしいことは、そのプロセスの中では、今まで「悪扱い」されてしまう位置にいた人の存在が「ちゃんと相対化」されて全体的な真実の無無理な具現化プロセスの一環にある部品なのだという理解が立ち上がってきて共有されるだけでも、彼らにとっては本当に「救い」に感じられ、相互理解の前提条件となっていくような価値に繋がるはずだということです。

そういう意味でこの「沈黙」に描かれたような「形式的善悪を超えて、全てを溶かす泥沼を飲み干しても残る価値の地平」に、二項対立的罵り合いを続ける人類はどんどん追い込まれていくということになるわけですね。

その中でも、しかし我々は暫定的に「それぞれの立場」から発言するしかありません。リベラルはリベラルの立場から、守るべきものを守らなくてはならないし、それによって自分の大事なものが踏みにじられていると感じている人はそれを必死で守らざるをえない。その必死の戦いが続くなかで、しかし破滅的なカタストロフにヒートアップしないようにみんなで真剣に目配りは欠かさずにいながら、あらゆる「善悪」を超えた「あるがままの本来的価値」に光があたる世界へと動かしていきましょう。

ジョジョの奇妙な冒険のセリフでやっぱりシメます。私はやはりジョルノが一番好きですね。

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生き残るのは、この世の真実だけだ。真実から出た誠の行動は決して滅びはしない。

お前の行動が真実から出たものなのか、それとも上っ面だけの邪悪から出たものか?それはこれからわかる。

果たしてあんたは滅びずにいられるかな?

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さて、今回の無料部分はここまでです。既にまた相当長いですが、以下はこういう「マクロな認識」をベースに、個人レベルの人生において我々はどうやって生きていけばいいのか、「他人を裁かずにいる」ことを日常的にやりつつ、グダグダな現状追認に陥らないためにはどうしたらいいのか?というようなことについて考えてみたいと思います。(ここ以降さらに約6千字程度続きます)

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この続き:6,019文字

「直接的でなくても伝わる力こそが真実」という話について。(2017年2月3日のブログ”最近サッカーつまんないと思うならスーパーボウルにヒントがあるかも”のブログこぼれ話)

倉本圭造

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倉本圭造

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