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2.恋人という特殊な関係

「愛ってなんだろう?」とか
「好きってなんだろう?」とか

素朴なんだけど、切羽詰まった問い。

運命のように感じていた「好き」な人を
それまでのように「好き」でいられなくなったり、

打算的にみえるような「愛」を行うことが
現実の「愛」なのではないかと思ったり。


今日は恋人同士という関係における「愛」に焦点を当てて
この問いに答えられたらと思います。

というのも、愛にはいくつか種類があり、
(家族愛とか、神への愛とか、友人愛とか)
恋人同士の愛とは中でも特異な位置を占めているからです。


エーリッヒ・フロムは『愛するということ』において、
恋人同士の愛の特異性を以下のように述べています。

愛とは特定の人間に対する関係ではない。愛の一つの『対象』に対してではなく、世界全体に対して人がどう関わるかを決定する態度、性格の方向性のことである。
…ただし、愛が一人ではなくすべての人に対する態度であるといっても、愛する対象の種類によって愛にもさまざまな種類があるという事実が否定されるわけでもない。
…私たちは皆『一者』だが、それにもかかわらず、一人一人はかけがえのない唯一無比の存在である。他人との関係にも、それと同じパラドックスが見られる。私たちは一つなのだから、兄弟愛という意味では私たちはすべての人を同じように愛する。しかしそれと同時に私たちは一人一人異なっているから、異性愛は一部の人にしか見られないような、特殊な極めて個人的な要素を必要とする。

ここで言わんとしていることは

フロムの愛の思想として一番根幹ともいえる
愛が技術と能力の問題であり、能動的な行為である以上、特定の人間に対する関係ではなく、
愛とは世界全体に対して、すべての人間に対してどう関わるかを決定する態度、その性格の方向性のこと

であるとするならば、

恋人同士の愛って誰か特定の対象によるものだからおかしいよね、となる。

ただここでフロムが言うのは、
みんな一緒であると同時にみんな違うから排他的説
ってことなんですね

ただ私、これはさすがに恋人同士の排他性を説明するには
個々人の性的な体験を普遍的人類愛の話に押し込めてしまったなあ
と思います


一方で、フロムが愛の基盤を人類愛に置いたのは
かなり画期的だったんじゃないかとも思ってまして…

以前「私たちは異性を買っている」https://note.mu/keke_katsumi/n/nc0c51a424176

で書いたように

愛の関係において現状はびこってるような
「互いに好都合な交換」が繰り広げられている限りにおいては
愛の関係に「信頼」も「安心」も起こりえないと思うのです


とすれば何をもって「愛」を誓うのか

これこそがフロムの提唱する愛の理論の

愛は決意であり、決断であり、約束である

という言葉の重みがでてきます


愛の基盤を人類愛であるからこそ
愛とは決意であることが可能となり
その約束こそが「恋に落ちる体験」よりもよっぽど
信憑性のあるものとして立ち現れてきます


ただ、愛とは決断であると言い切ってしまうと
では誰でもいいのかという話になってしまう

そうではありません

恋人同士の愛のその「排他性」のわけは
その奇妙な確信として説明ができます

プラトンは著書『パイドロス』において以下のように述べています

しかり、人がこの世の美を見て、真実の美を想起し、翼を生じ、翔け登ろうとして羽ばたきするけれども、それができずに、鳥のように上の方を眺めやって下界のことをなおざりにするとき、狂気であるとの批判を受けるのだから。…この狂気こそはすべての神がかりの中で、自ら狂う者にとっても、この狂気とともにあずかるものにとっても、最も善きものであり、またもっとも善きものから由来するものでもある。

この論はひとがどう世界を認識するか、何を真とするのかという議論に入るので詳しくはまた次回にご説明しますが、

愛にはカントの言う「美の普遍的妥当性」と極めて近しい認識が
行われている論が非常に説得力があります。


以上今回お伝えしたかったこととしては
愛とは「決断」の要素が多分に含まれるということであり

私たちが一般に悩むような「好き」や「愛」の話は
その観点が欠けているように思われます

よかったらみなさんの思う愛についても意見を聞かせてください

最後まで読んでくださりありがとうございました!