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あなたは"優しい"のか?

突然ですが、

あなたは「優しい」ですか?

優しくない、というのはなぜでしょう。
「人の嫌なところばかり目についてしまって、陰で悪口を言う」から
でしょうか。

優しい、というのはなぜでしょう。
「人のことが好きで、気遣いのある振る舞いをよくできる」から
でしょうか。


「優しい」って何なんだろう。

「優しい」人でありたい、とか
「優しい」人が好き、とか

それは何を指しているんでしょうか。


倫理学には、
その行為の「結果」を評価する派と、その「動機」を評価する派がいます。
「優しい」とはその人が持つ性格の特質のことなので、
ここでは優しいとは「考え方」つまり動機のことを指します。

ので「悪口をいう」ことは「優しくない」ことの理由にはなりません。
「優しくない」人が「悪口を言う」ことが多いだけであって、
「悪口を言う」という行為自体がその人の「優しさ」を規定しないからです。

これは「優しい」行為にも同じことが言えます。

いつも気配りができて、善行といわれるようなことをする人は
「優しい」人がするような行為をしているのであって、
その人が「優しい」とは限らない
ように思えます。


ここでもう一つ、問いが生まれます。

どんな動機を持ったら
その人は「優しい」といえるのか?
ということです。

「優しい」動機の例として
「その人のために」というのが
非常にわかりやすいかと思います。

ただ、この「その人のために」何かをすること、
めちゃくちゃ難しいことだと思っています。

レインの「自己と他者」の中に以下の一節があります。

ある看護士が、ひとりの、いくらか緊張がかった破瓜型分裂病患者の世話をしていた。彼らが顔を合わせてしばらくしてから、看護婦は患者に一杯のお茶を与えた。この慢性の精神患者は、お茶を飲みながらこういった。<だれかが私に一杯のお茶をくださったなんて、これが生まれて初めてです。>
誰だって誰かのためにお茶をいれることはできる。しかしそれが求められたからではなく、業務としてでもなく、もちろん茶碗を自慢するためでもなくて、「だれかのため」「なにかのため」という意識が全くなしに、ただあるひとに一杯のお茶を供することとしてあって、そしてそれ以上でも以下でもないという事実は、それほどありふれたものではない。(鷲田清和「じぶん・この不思議な存在」)

誰かのために何かをするとき

そのことを「わたし」とは全く関わりなく行動することは、可能なのか。


誰かの「ために」何かをしている私は、
「してあげる」主体になると同時に、
その誰かを「してもらう」客体になり下げる。

誰かのために何かをするという単純な行為は、
「してあげる」という意識が混ざることで
大きなゆがみを生みます。

そこにはもはやその「誰か」は存在しなく、
お茶を供する「わたし」だけが存在する。

レインの患者は
他人のために一杯のお茶を供する、それ以上でも以下でもないその行為に
感動したんですね。


電車に乗っていておばあちゃんが乗ってきた。
席を譲った。「おばあちゃんのために」

ただこれ、席を譲っただけだと、思い切るのが難しい。

何やらいいことをした私を意識しているのではないかと、
その人を「してもらった人」として匿名化して、
「いいことをしてあげた私」を認識することで
何かを満たしたのではないかと、そう思えてきます。

対象が身近であればあるほど、難しい。

「いいこと」を先輩や、仲のいい友達にするのはなぜか。
近い距離の人であればあるほど、「わたし」をより強烈に意識してしまう。

そうなれば自分の世界の中にいろんな他者を
押し込めてしまうことになります。


では、どうすればいいのか。

「他者」を「わたし」の中に押し込める傾向は
本質的には他者がわからないことへの不安かもしれない。

だから、そんな不安を乗り越えるために、認識を変える。
「意識を明るい円で表して、その周囲は意識にとって闇ばかりだという比喩とは、決定的に絶縁すること。」(マルセル)

その上で、
「わたし」から他者を考えるのではなくて、
他者の方から考える、他者にとっての自分というものを考える。


そんな風に本には書かれていました。

これは…どうなんでしょう。
確かに、本質的には周りの人がわからないことの不安から、
私たちは誰かのために何かをする、ことが難しい。

ただ、私たちは私たちの見たいように世界を切り取っている。
私の見ている他者は、「わたし」が選んで切り取った他者なんだと思ってしまうんですよね。

だからマルセルの言うような認識の変革は難しそう…とも思います。


ので、今考えているのは、頑張りなのかなと。

すこしでも私の認識を、近づけていくために、
できる限り、自分の解釈に敏感に、人と関わることが大事なんじゃないかなと。


何よりも、前述したような、
「誰かのために何かをする」という行為には
自分の世界に押し込めるリスクがあることを意識して

見える世界を自分で改革したいなと思う、この頃です。


「優しさ」について皆さんの考えを深めるような文になっていたら嬉しいです。
読んでくださってありがとうございました!