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【031】ブッダの生涯-【7】(仏教哲学の世界観第2シリーズ)

仏陀の悟りをどのように理解するか

前回はお釈迦さまが何を悟ったのか、ということについて十二支縁起を取り上げて解説しました。
十二支縁起とは、人間の活動は12の要素が順に原因と結果の連鎖で構成されているという考えで、ドミノ倒しのように原因が結果となり、結果が次の原因となる。そのため誤った原因が連鎖し最後には老死へと帰結します。

最初の仏伝に描かれたものとはいえ、これもまた本当にお釈迦さまが悟った内容であったのかは疑問が残ります。

今回は佐々木先生自身の考えも合わせてお釈迦さまの悟りについて再考しています。


このシリーズでは僕が仏教について学んだことを記しています。
主な教材は仏教学者で花園大学の教授をなさっている佐々木閑先生のYouTubeでの講座の内容をまとめています。
もちろん僕の主観によるまとめなので色々と解釈の違いや間違った理解があるかと思います。
それはX(Twitter)などでご指摘いただけると幸いです。

あくまでも大学生の受講ノートみたいなものだと考えていただけると幸いです。


ブッダの生涯7

https://youtu.be/W_JNNk7ovlE?si=1UBlU2H1CEgPV5EJ

AIによる要約

この講義ではお釈迦様の悟りについて深く掘り下げています。講師は、お釈迦様の悟りが伝説的な出来事として語られがちだが、それは後世の人々の願望が反映されたものであり、むしろ人間としてのお釈迦様が人生の中で積み重ねた知恵の集大成であったと説明しています。さらに、お釈迦様の教えの核心は「諸行無常」「一切皆苦」という厳しい世界観にあり、その教えは言葉だけでなく、自らの実践と行動を通して体現されたものであると強調しています。

学習した事

仏陀の悟りをどのように捉えるか

菩提樹の下で仏陀がなにを悟ったのか。
それはさまざまな文献によって異なり一本化して捉えることができない。
それではお釈迦さまの悟りは理解できないのか?
というと決してそうではない。

なぜならば、お釈迦さまが残した仏教という宗教には確固たる世界観が存在しており、それをもとに我々が歩むべき目的をはっきりと示されている。

このことから、現在まで続く仏教の世界観と人々の生きる目標、目指す先。これが「仏陀の悟り」として捉えることができる。

伝説化を想定しつつ、人間としてお釈迦さまを見る

このような偉大な人物に対して、私たちは超人として捉えてしまいがちである。

伝説化し、偶像として扱う。
このような思いが仏伝というストーリーとなっており、そこには超自然的な描写もある。

釈迦は摩耶夫人の右脇から生まれたとされるが、その直後に七歩歩いて右手で天を指し、左手で地をさして「天上天下唯我独尊」と言った、という逸話から出てきたものである。

Wikipedia

当然このようなことはあり得ないが、お釈迦さまを敬愛した弟子、孫弟子たちなど後の人々の情念がそのような伝説を作り上げていった。
そのため、仏伝を歴史的な事実として捉えることはできないし、この伝説を信じることが仏教を信じることになるわけでもない。

「菩提樹の下で悟りを開いた」というエピソードにしても、(情念によって作られた)仏伝の一部であるという理解が必要になる。

菩提樹での悟りのシーンこそは重要な場面なので歴史的事実であろう。
と想定することも、じつのところその根拠は存在しない。
むしろこのような重要な場面であるからこそ壮大な演出や脚色が加わっているだろうと想定するほうが自然である。

つまり、仏伝をもとにお釈迦さまを知るにしても、そのような演出を織り込んだ上で、あくまでも人間としての人生であったと認識したほうが信頼できると言える。

なお、菩提樹の下で悟りを開いたということ自体はおそらく間違いない。
その理由はお釈迦さまが死去したすぐ後の時代にブダガヤの菩提樹は仏跡の巡礼地として多くの人が訪れたとする記録が残っているためである。

菩提樹の下での悟りにしても、ある日突然閃いた悟りというわけではなく、これまでの蓄積によって最後に完成したのが菩提樹の下であったと捉えた方が自然なお釈迦さまの実像であると考えられる。

根本的な世界観をまず理解する

お釈迦さまが残した仏教というあり方から得られる、仏陀の悟りというものがどういうものであるか。

仏教だけがもつ独自の世界観。
お釈迦さまの出現によって誕生した独自の世界観。

これらを追求すると次の三つに行き着く。

  1. 諸行無常

  2. 諸法無我

  3. 一切皆苦

諸行無常
この世の物は全て時と共に変容し崩壊する。
この教えもまた例外ではない。

諸法無我
「私」という本質もどこにも存在しない。
「私」とは今この瞬間だけの無常の集合体でしかなく、
普遍のものでは無い。

一切皆苦
以上をもって、一つとして絶対に頼れるものはない。
ここに縋れば絶対に助かるという存在はない。

このように非常にシビアで厳しい考え方が仏教の世界観である。
ここまでで終わってしまうと何も救われず、仏教の存在価値はなくなる。
しかし、これらから抜け出す方法はある。とするのが仏教の教えである。

その方法は
外からの救いを求めるのではなく、
自分で自分の心の苦しみを消し去る

ということ。
これは人間が避けることのできない、生き物としての本能と向き合わざるを得ない恐ろしく、また難しい方法である。

お釈迦さまの教えを一言で無理にでも表現するとなるとこの考え方が最も基本的な土台となる。

悟りの全貌とは、世界観・実践・組織にある

お釈迦さまの教えとは一言で言い表せる方法はなく、その心の内にある立体的で複雑な世界観全体が仏教なのである。
しかしそれも理屈だけで表される世界観だけが悟りではない。
その世界観の中で「自分自身を変えていく」という実践活動も悟りの一部である。

お釈迦さまは弟子たちに対して理屈だけでなく、実践の部分も手取り足取り指導している。
これはその延長にある仏教僧団、つまり組織自体も悟りの一部であるといえるし、出家修行者たちの姿そのものも含まれる。

したがって、
言葉で説明される世界観を理解し、
自分を変える方法を実践する
そして
実行できる組織を維持する
これらを総合して初めてお釈迦さまの悟りの内容とすることができる。

悟りに関する誤解

お釈迦さまの教えは一本化して語ることができず、さまざまな形で説かれている問答や姿から理解していくしかない。
そのため、お釈迦さまの悟りとは何か?という問いに対して、
これを一言で答えようにも窮するしかなくなる。

このように答えようがない状態を曲解して
無言のなかに無限の可能性を秘めているのがお釈迦さまの教えの本質である
などという解釈がある。

しかし、これは誤りである。
お釈迦さまはしっかりとした思想を持っており、確実に全ての教えを伝えている。
何も語らないところに教えはない。
伝わらないことも、それでも言葉で伝える。
これが仏道指導者の本意であるとしている。

決して沈黙は悟りの表現ではない。

感想

今回はもやっとした表現が多く理解が難しかった。
何度も繰り返し解説されている通り、お釈迦さまの悟りの内容はとても一言では言い表すことができない。
理解するためのプロセスとして、

  1. 諸行無常・諸法無我・一切皆苦を前提とする

  2. 的確な指示のもと実践する

  3. 実践の場を維持する

といったことを網羅しなければならない。
問題は、ここまでやって悟りの内容を理解したとしても
果たして悟ったか?が疑問になる。

悟りの内容を理解することと悟りを得るのは違うと思う。
前提知識があって、実践できる環境があって実践する。
本当に体感できるのかが問題だろう。

もしかすると、お釈迦さまの時代であればお釈迦さま自身による指導によってそれが達成できた人は多くいたのかもしれない。

よくわからなかったのは、仏教僧団という組織が「悟りの一部」であるという解釈。
悟りというものはあくまでも個人の心の中で起こる現象、というか改革なので、そこに組織がどう関係するのかが今ひとつピンとこない。
もちろん快適な修行の場が必要だと思うけど、「自分で自分の心の苦しみを消し去る」という目的に必ずしも組織が必要だとは思えない。

図にして書いてみたけど、ここに書いた「世界観」「実践」「組織」は
仏法僧の「三宝」に対応してるのかも。と思った。

仏→お釈迦さま自身ではなく「お釈迦さまが分析した結果の世界観」
法→戒や瞑想のテクニックの実践
僧→律と仏教僧団

三宝の「仏」は神格化されたお釈迦さまの性格、キャリアの事を言っているのではなくて、お釈迦さまが知覚した世界観の事なのではないか?

そういう理解であれば、今回の冒頭にあったようにファンタジー化したお釈迦さまというキャラクターではなく、一人の普通の人間としての正しい理解、つまりお釈迦さまの本意が理解がしやすい気がする。


次回は「ブッダの生涯8」 (仏教哲学の世界観 第2シリーズ)
仏伝で語られる物語に話を戻します。
悟りを開いたお釈迦さま、その後しばらくは楽を噛み締めていましたが、そこに初めてお布施をする者が現れます。


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