見出し画像

旧都城市民会館の行く末に物申す前に、建築家が知るべきこと

2日前、普段私の読んでいる建築ライターの方が以下のnoteを出した。旧都城市民会館の保存と、僕たち建築家が何をできるかについてである。

素晴らしい記事なのでぜひ読んでほしい。簡単にnoteの要点を述べると

・旧都城市民会館は市民から「取り壊すべき」とされている。
・旧都城市民会館は素晴らしい建築である。市民にそれが伝わっていない。
・「維持コスト≦建築が生み出している価値」なら解体されることがない。
・建築家は建築の価値について、一般市民に対し発信するべきである。
・今はそれができていない。

である。
まさにこの記事の言うとおりである。自分はこの記事を読んだ時に深く感銘を受けた。
旧都城市民会館は素晴らしい建築であるし、建築家は発信ができていない。
まさに自分の常々考えてきた意見と同じである。

だがどうやら、この記事を読んだ周囲の建築人の多くは「そうだそうだ!旧都城市民会館は素晴らしいんだぞ!価値があるんだぞ!保存しろ!」と声高に叫んでいるきらいがある。
この問題はそんな単純な問題ではない。


・そもそも旧都城市民会館問題ってなに?
ここでまず、建築に詳しくない人のために、旧都城市民会館について簡単に説明しよう。

・旧都城市民会館について
1966年完成。設計は菊竹清訓氏。40年程市民会館として使われていた。
「メタボリズム」という日本初の建築思想に基づいて設計。
「メタボリズム」の代表作。
DOCOMOMO Japanが、日本の近代建築125の一つに選定。
カタツムリみたいな見た目でおもしろい。

正直、この説明を読んで「なるほどすごい!」となる人は少ない気がする。
国際的に賞を取っているわけではないし、「日本の近代建築125の一つ」と言われても知らんわって感じだろう。
誰しもが「銀閣寺」という建物を小学校で習ったと思う。銀閣寺は「書院造」という様式の代表作として有名であり、今もなお評価されている。
旧都城市民会館も「メタボリズム」の代表作として有名なので、「銀閣寺みたいな立ち位置のもの」という認識でいてほしい。実際、遺り続ければ1000年後には社会の教科書に載っているかもしれない建築だし。
旧都城市民会館は「遺されるべき建築」である。

そして何も考えずに都城市を非難している建築人のために、この問題について解説する。

・旧都城市民会館問題について
とにかく維持コストが高い。維持費と修繕費で年7千万円かかっている。
建築的に不備が多い(遮音性、外壁の安全性、雨漏りなどなど)。
今のまま維持するには大規模修繕が必要。元のように使うには約10億必要。
この修繕費、今後もおよそ40年おきに必要になる。
そしてこのお金は都城市民の税金で支払われる。←重要
民間企業から出された提案は現実的でなく却下。
市民アンケートでは存続15.9%、解体82.9%

詳しくは上にある、都城市議会が出した説明資料を読んでほしい。

先ほども書いたが、旧都城市民会館は「遺されるべき建築」である。
じゃあ都城市は旧都城市民会館を遺すべきなのか?


・「遺されるべき」と「遺すべき」は違う
旧都城市民会館は素晴らしい建築である。素晴らしい建築であるのだが、
市民の税金を億単位でつぎ込み、遺すほどではない。
これが私の考えである。

最初に紹介したnoteで
「建築を維持管理するコスト≦建築が生み出している価値」
という式が出てきた。
旧都城市民会館問題、明らかに維持管理するコストが見合っていない。

冷静に考えてみてほしい。
10億あったら都城市は何ができる?
年間の維持修繕費の7千万円があれば何ができた?
その「できたであろうこと」と「旧都城市民会館の保存」、どちらが大事?

都城市は、
「旧都城市民会館を保存するよりも人口減少対策や子育て支援の方が優先」
「市のみで、旧市民会館の保存費用を負担することは極めて困難」
と言っている。つまり、建築一個保存するより市民のためにお金を使いたいのである。市民も、「建築一個保存するより私たちのためにお金を使ってほしい」と思っているのである。だから解体賛成派が多いのである。
別に建築のすばらしさを知らないわけではない。都城市民らは建築を間近で見て、実際に利用していた立場である。素晴らしさを理解したうえで、解体すべきとしているのである。


・お金を出さないのに文句を言うのは「無責任」
なぜ建築家らは「保存するべき」という意見を出しがちなのか。それは旧都城市民会館が素晴らしいからではない。彼らはお金を払わないからだ。
端的いえば、建築家らにとって都城市民の人生なんてどうでもいい。人口が減ろうが子育てできなかろうが建築家らの人生になんも影響はないのだ。だから「(税金をつぎ込んででも)保存するべき」などと言えるのである。
そもそも税金で保存しているってことすら知らないかもしれない。

無責任である。

これを無責任と呼ばずして何と呼ぶのか?
「保存すべき」と声高に叫んではいるが、その実、修繕費の負担を都城市民に押し付けているだけである。都城市民は間違いなく思っているだろう。
「建築的価値があるから遺せって、じゃあお前らがお金出せよ。」、と。

どう考えても「旧都城市民会館の保存」より社会保障の方が都城市民の生活を豊かにできるのだ。それを都城市外から、自分にはお金がかからないからと野次を飛ばす建築家集団は害悪以外の何物でもない。
私たちは建築人である前に、部外者なのだ。


・「保存」以外の遺し方だってある 解体しても「消える」わけじゃない
もちろん何度も言うように、旧都城市民会館は素晴らしい。文化的価値のある建築である。歴史に名を遺せる建築であるし、今後「日本建築史」を語る上で外せない建築である。
自分が指摘していることは、「だがそれ以上に、保存にコストがかかる」「しかもお金を払うのは都城市民である」の二点である。これを間違えないでほしい。
そもそも現実的に考えて、日本にあるすべての「名建築」を現物保存することは不可能である。日本に「遺すべき」とされる建築は千数百とあるのだ。
「建築本体でしか伝えられないこともある」という思いもわかるし、「名建築は未来の都市空間に影響を与え得る」という考え方もわかる。だが、コストとの釣り合いを考えると、現物保存は現実的ではない。

じゃあどうしろと言うのか。
メディアによる保存が最適解ではないかと私は思う。

失われた名建築で教科書にも載っている建築と言えば……水晶宮であろうか。水晶宮がなくなっても当時のインパクトは・写真は・思想は・歴史はなくならなかった。同じように、旧都城市民会館が解体されてもメタボリズムの思想や歴史が消えることはない。建築が失われても、建築があったという事実はなくならない。
メディアによる保存が遺せるものは、間違いなく現物保存よりは少ない。だが我々は水晶宮の時代とは異なり、映像もVRも持っている。文字通り次元が違うのだ。適切に保存すれば、低コストで質の高い保存ができよう。

現物保存にこだわらなくたっていいじゃないか。
都城市民に現物保存を押し付けお金を払わせること、ないじゃないか。


・都城市を尊重しよう
来月、旧都城市民会館についての続報が出る。おそらく解体だろう。
そしてそれと同時に、数々の建築人は「遺憾の意」を表明する。

ある人は「都城市民は無知だ」、ある人は「日本の建築界への冒涜だ」、またある人は「日本建築の未来が危うい」などと好き勝手に嘆きだす。今すでに嘆いている人もいる。(もっとも、これらは建築界内で嘆いているだけなのでただの内輪騒ぎに過ぎないのだが)

しかし「遺憾の意」を表明することは「真にするべきこと」ではない。
ましてや、都城市を非難することは決してしてはならない。
これはあくまで都城市の問題だし、何度も考えたうえでの結論なのだから。


・取り壊される前に
旧都城市民会館に限らず、これから数多の建築がこのように解体の憂き目にあいそうになる。中野本町の家のように取り壊された建築もある。
これらの建築に対して私たちができることを、今一度考えてみるべきかもしれない。それは「発信する」かもしれないし、「メディア保存する」かもしれないし、もっと他にもあるかもしれない。


もし読者に旧都城市民会館へ行ったことがない人がいたら、とりあえず行くことを勧めたい。そして体験して、一枚でも多く写真に収めてほしい。できることなら旧都城市民会館のすばらしさを伝えてあげてほしい。
それが今、僕らが旧都城市民会館に、設計者の方々に対してできる
最大限の敬意の表し方なのだから。


このnoteに思うところのある人は、本当に多いと思う。ぜひその意見を聞かせてほしい。もしかしたら自分の考え方を変えるきっかけになるかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?