見出し画像

書くことは、人生の総力戦なのだ。単語一つに人生が染み出す。

「動画の時代なのに、なぜ文章を書き続けるのですか」とよく聞かれる。

好きだから、としか言いようがない。僕は文章を書くのも読むのも大好きだ。マーケットがどうの、時代性がどうの、そんなことを計算して書いていない。好きだから書き続けている。


文章には、人生が染み出す。たった一つの単語の選び方で、書き手の人生に触れることができる。僕が読むことを愛してやまない理由だ。

一例を挙げよう。こんなnoteを読んだ。

昨日書かれたnoteだ。よくある転職エントリではなく「医師からエンジニアへの転職」という珍しさがあり、ずいぶん話題になっていた。

書き手は東大医学部卒、医師としてとても立派なキャリアを歩んでいたようだ。

文章自体もたいへん面白く読めたのだが、ぼくは「ある単語の選び方」にグッと来た。本筋とは全く関係ないことだけど、単語一つで書き手の人生に触れられたような気がして嬉しくなった。その部分を引用しよう。


医師としては血液内科専門医の試験に合格し、4月から血液内科医長という身分に昇格し、給料も大きく上がりました。しかし臨床能力はプラトーにほぼ達しており、医師としては10年後、20年後もだいたい同じような仕事を続けている自分が想像されました。


どうだろうか。皆さんも恐らく引っかかるのではないだろうか。「プラトー」という聞き慣れない単語。文脈からすると恐らく「限界点」のような意味だろうな、と推測されるが、調べてみる。


プラトー(Plateau)は、一時的な停滞状態のことを言う。おもに筋力トレーニング時の停滞期を指す。
ウィキペディア「プラトー(トレーニング)」より引用


なるほど、筋トレで使われる言葉らしい。しかし、予測された意味とは若干異なっている。元の文脈では「限界点」のようなニュアンスだが、ウィキペディアに載っている意味は「一時的な停滞状態」である。

このズレは、ウィキペディアを最後まで読み進めると解決した。


他、脳神経障害におけるリハビリテーションの機能回復の限界にも使用される。例えば、脳梗塞などで脳の一部が壊疽し、(中略)、壊疽で失った脳機能とまったく同じ状態での回復は期待しにくいため、病状が発祥する前の身体機能と比較して、その病状からの機能回復の「限界」や「停滞状態」の事を、プラトーと表現する。

そう、「プラトー」という単語、著者の専門領域である医療の世界では、「限界」という意味で用いられることが多いのだ。

著者はきっと、日常からこの単語を使っているのだろう。たった一つの言葉選びに、人生や専門性がにじみ出ている。

これを理解したとき、僕は嬉しくなった。本筋と関係のない言葉選びから、著者の内面に触れることができた気がした。


書くことは、人生の総力戦だ。書き手が蓄えてきた全ての経験が、知識が、技術が凝縮されて文章に変わる。

たった一つの単語の選び方に、いや、たった一つの句読点にさえ、血肉が宿っているように思えてならない。

だから、僕は文章が好きだ。読むのも、書くのも。誰かの人生に触れる喜びも、自分の人生に触れてもらう喜びも、抗いがたい魅力を持っている。


書くことも読むことも、一生やめない。マーケットがどうの、時代性がどうの、そんなことは関係ない。

僕は自分の人生をさらし続けるし、誰かの人生を味わい続けるだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?