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あなたが僕のことを語っておくれよ、大げさに頼んだぜ。

もしも僕が「大きく」なってもならなくても、あなたは他人よりきっと僕のこと知っているから
いつか僕が死んでしまったら、あなたが僕のことを語っておくれよ、大げさに頼んだぜ。

爆弾ジョニー「かなしみのない場所へ」の歌詞だ。

最近、ことあるごとにこの歌詞を思い出している。「友だちとはなんだろう」と考えた時に、たいていはこの歌詞が出てくる。


僕には友だちがほとんどいない。

そもそも、「友だち」というベタッとした表現が苦手だ。僕はドライな人間関係が好きだ。「一緒にいる理由」を聞かれた時に、明確な理由をもって説明できる人間関係が好きだ。一緒にいるメリット(楽しい、話していると学びがある、仕事につながる等)が、一緒にいるデメリット(時間を取られる、気を使う、イライラさせられる等)を上回っているから一緒にいるだけだと、そう断言できる人間関係が好きだ。

一方、世間一般における「友だち」という言葉は、もっとベタッとしたニュアンスを持っている。”永遠不変”であり”利害を越えた関係”というイメージがある。「ズッ友」という言葉に象徴されるように「何があっても私たちは一生友だちだ」というような表現が世間を飛び交っている。居心地が悪い。

そんなはずはない。話が合わなくなれば、大きな背信行為を受ければ、「友だち」関係は解消されるはずだ。その方が健全であるとすら思う。

僕は20年来の友だちであっても「あ、こいつと一緒にいても楽しくないな」と思ったら会うのをやめる。実際、小中高と一緒で、上京してからも頻繁に飲みに行っていた20年来の友だちとは、もう会っていない(「東大を出たから年収一千万は欲しい」と言う親友と、飲みに行くのをやめた。)。


そんなワケで、ベタッとした定義の「友だち」が苦手で、その定義で言うのなら僕には「友だち」など一人も存在しない、と思う。

だけど、僕にも少数ながら”友だち”は存在している。では、この”友だち”の定義は何なのだろうか。

最初は、先に述べた「一緒にいるメリットがデメリットを上回っている人」だと思った。

だけどこれだと、「仕事をくれるから飲みに行っている人」は”友だち”に含まれてしまうなと思った。仕事をくれなくなったらこの人とは飲みに行かないよな、と考えると、この定義は上手じゃない。

そこで、もう少し上手な定義をしようと考えた。

僕が”友だち”であると思っている人の顔を思い浮かべる。彼らに共通する特徴は、なんだろうか。


出た結論が、冒頭の爆弾ジョニーの歌詞である。

もしも僕が「大きく」なってもならなくても、あなたは他人よりきっと僕のこと知っているから
いつか僕が死んでしまったら、あなたが僕のことを語っておくれよ、大げさに頼んだぜ。

そうだ。これがいい。

いつか僕が死んでしまったら、あなたが僕のことを語っておくれよ」とお願いできる人が、”友だち”だ。

親しさは関係ない。たとえ一緒にどれだけの時間を過ごしたことがあろうが「僕のことを語っておくれよ」と頼みたくない相手はたくさんいる。

たとえ、数回しか顔を合わせたことがなくても、「あなたは他人よりきっと僕のこと知っているから」と言える相手もいる。


ここでいう”友だち”は「理解者」と置き換えてもいいのかもしれない。僕が死んだ後、彼/彼女なら、きっとそこそこ正確に僕の思っていたことを代弁してくれる気がするのだ。

今後、僕の”友だち”定義は、この爆弾ジョニー流を採用していこうと思う。


僕の”友だち”の皆様、もし僕が今日のたれ死んだら、あなたが僕のことを語ってください。大げさにお願いします。

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