整った物語より、さびれたコインランドリーの一瞬を。
「個人の力を信じていた一匹狼が、組織を作って仲間の大切さを理解した」となればよかったんだけどね。そうはならなかった。
花房孟胤さんという大好きな経営者がいる。「予備校なんてぶっ潰そうぜ」というたいへんな名著の著者で、僕は大学生の時にこの本を読んでとてつもない衝撃を受けた。ずいぶん丁寧なレビューも書いた。
興味のある人はぜひこのレビューを読んで欲しい。僕の人生に一番衝撃を与えた本だと思う。
花房さんは上記のレビュー記事をちゃんと読んでくれて、それをきっかけに一度お会いした。彼は初対面の僕にたっぷり時間を取ってくれて、3時間ほども話した。
いくつも貴重な話が聞けたが、一番印象的だったのは冒頭の話だ。
「個人の力を信じていた一匹狼が、組織を作って仲間の大切さを理解した」となればよかったんだけどね。そうはならなかった。
彼は、元々リーダーシップがあるタイプでもなかった。いつも1人で本を読んでいて、個人の力を信じているタイプだった。
そんな彼は大学生の時、教育サービスを始めた。多くの人を巻き込み、小さな学生団体からどんどん大きな集団になり、社会現象になった。
ものすごく分かりやすいドラマだ。1人だった人が、たくさんの仲間を集めて強敵に挑戦する。ドラゴンボールでもワンピースでも同じ、すごく普遍的なドラマ。
このドラマのメッセージは、いつも同じ。「仲間の大切さ」だ。仲間が集まってくることは一番美しいことで、素晴らしいことだ。
だけど、花房さんは語った。「そうはならなかった」と。
「一番大切なのは、個の力である」と。
そして彼は付け加えた。「僕の最初の起業は、整ったストーリーにはならなかった」と。
人生、そんなことばかりだなと思う。僕たちのストーリーはいつだってグチャグチャに散らかっている。
努力はあまり報われないし、重要人物は意味のない場面で死んだり、あまりにも救いのない裏切りをしたりする。
謎は解けないまま終わるし、奇跡は起こらないし、最後に正義が勝つとは限らない。
じゃあ、人生は地獄なのか。僕たちはこの醜い世界を呪うしかないのか。
僕は、そう思わない。
僕たちには整っていないストーリーを楽しむという能力があるからだ。
全てを捨てて受験勉強しても大学に落ちるし、どんなに尽くしても無残に恋人に振られる。そんな整っていないストーリーを「まあ、それが人生だよな」と受け入れる力があるからだ。
施川ユウキ先生という、僕の大好きな漫画家がいる。ギャグ漫画を専門にしている漫画家だ。
そして、ギャグ漫画なのにも関わらず、彼の最近の漫画には異常に心を揺さぶられる。
その理由が、このインタビュー記事で少しわかった気がした。
インタビューの中で、施川ユウキ先生は「最近は漫画からオチを削っている」という衝撃の事実を明かしている。
その理由を聞かれた彼の答えを引用しよう。
オチが必ずあるって構造に対して、僕があまり面白く感じなくなったというのが大きいです。
思うに、施川ユウキ先生もやはり「整ったストーリー」を描くことを退屈に感じているのではないだろうか。
なぜなら、人生は整ったストーリーではないから。
整ったストーリーを描くよりもむしろ、人生に肉薄する「整っていないストーリー」を描くことに意義を感じているのではないだろうか。
施川ユウキ先生の「12月生まれの少年」という漫画の最終巻が、最近出た。
最後の1ページを、転載しよう。
繰り返すが、これが本作の最後の1ページだ。
つまりこの物語も、やはりオチはない。主人公は学校でふと(特に大きなドラマがあるわけではないのに)特別な気持ちになり、その一瞬を噛み締めながら、ただ家に帰る。そして物語は幕を下ろす。
整っていないストーリーだ。だけど、僕は読んでグッと来てしまった。
施川ユウキ先生の言葉選びには、卓越した叙情性がある。彼の言葉選びの力で、整っていないストーリーの美しさを、じんわりと胸に染み込ませることができる。
そして、読者は「ああ、整っていないストーリーも美しいものだ」と感じる。
そう、施川ユウキ先生の漫画は整っていないストーリーを肯定している。すなわち、人生を肯定しているのだ。
だから彼の最近の漫画はこれほどまでに胸に迫る。
繰り返すが、僕たちが生きていくための基幹能力は「整っていないストーリーを楽しむ力」だ。努力が報われない世界も、肯定して楽しまなければいけない。
施川ユウキ先生の最近の漫画は、まさにこの基幹能力を最高に高めてくれる特効薬だと言えよう。
これを作り出すことに成功してしまった彼が、整ったストーリーを描くのがつまらなくなるのは当然だ。整ったストーリーは、勇気を与えてくれるカンフル剤ではあるけれど、人生の基幹能力を高めてはくれないのだから。
「12月生まれの少年」の最終巻には、施川ユウキ先生のあとがきがついている。最終回のオチについてだ。
15年近く前のある冬の日、蛍光灯が不規則に明滅する真夜中のコインランドリー。一台の乾燥機を前に、19歳の僕がいた。
(中略)
ガコンガコンと一定の間隔で鳴る機械音だけが、静かな夜にこだましていた。突然、何の前触れも無く僕は気付く。
もし自分の人生が一本の映画だとしたら、全ては今この場所にたどり着くための物語だったのだ、と。地元浜松から遠く離れた大阪市浪速区の、深夜の小さなコインランドリーの、サビだらけのスタッキングスツールの、ガムテープで補修されたボロボロのビニール座面。そこが僕という物語の終着地点だったのだ。何かを成し遂げた訳でもないし、ドラマチックな出来事を経験した訳でもない。成長もなく繰り返す日常の中で、何の理由もなく、いきなりそう確信した。
そんな経験を思い出し、彼はこのオチを作ったらしい。
僕にもこのコインランドリーのような経験に思い当たるフシがあるし、誰もがきっと大なり小なり似たような経験がある。
そして、これこそが人生だ。ドラマチックな出来事などではなく、深夜のさびれたコインランドリーでふと最終回を感じる、整っていないストーリーこそが人生だ。
この漫画とあとがきを通して、「これが人生だし、悪くない」というあたたかさがじんわりと伝わってくる。
もしかしたら、全ての表現者のゴールは、整っていないストーリーを、さびれたコインランドリーの一瞬を上手に見せることなのかもしれない。
僕はとてもその域には達していないけど、今は整ったストーリーに頼ってしまいがちだけれど、いつか自分なりの形で、さびれたコインランドリーの一瞬を描き出したい。そう強く思う。
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