挿絵_2

現代建築家宣言 Contemporary Architects Manifesto【2】〈弱き者〉 の 〈不安定性〉、 あるいは 〈可塑性〉 の享受

建築界のこの底知れぬ閉塞感と、夢のなさを肌身で実感する平成生まれの
20代建築家が、それでも建築に希望を見いだす術を模索した痕跡。
*『建築ジャーナル』2019年6月号からの転載です。 

第二回〈弱き者〉 の 〈不安定性〉、 あるいは 〈可塑性〉 の享受

著者・若林拓哉 

――現代建築家は、〈不安定性〉による安定を自認する。

 われわれは、21世紀において現代社会が今まさに直面している現代的な問いに応答する〈現代建築〉を指向する、〈現代建築家〉にならなければならない。
 第一回では、その現代的な問いのキーワードの一つとして

〈不安定性precarity〉❖1

を提示して幕を閉じた。
 なぜ〈不安定性〉なのか? そして〈不安定性〉とは一体何なのか? まずは前回の最後に引用した建築理論家のビアトリス・コロミーナとマーク・ウィグリーの著書『我々は人間なのか?』の一節を振り返ろう。
 著者は「21世紀は神経疾患の時代」であり、幾つかの具体的な疾患名を挙げたうえで「これらの疾患に対応する建築とは何なのだろうか?」❖2と問いを投げかける。これに対して、少なくとも「後期近代」の建築は、社会的にも精神的にも自立した、いわば〈強き者〉のための建築だったといえる。

この〈強き者〉を、私は"近代社会という巨大機械を駆動する部品として訓練された人間/それを操縦する人間"

と捉えている。「巨大機械 (メガマシン)」❖3という概念は、米国の文明評論家ルイス・マンフォードが提唱したものである。彼は「巨大機械」の起源を紀元前のピラミッド建設へと遡り、ピラミッド建設に従事する人々をまさしく機械の部品とみなし駆動させたことが、その実現に不可欠だったとしている。そこで、大量の労働力をシステマティックに効率的に使役する技術が導入された。
 そして、この「巨大機械」の概念が近代社会によってシャーマンのごとく再び呼び起こされる。その最大の要因は、近代社会が社会的・経済的発展のために発明した大量生産・大量消費システムを継続させる必要性に依っている。それらを支える人的資本の生成手段として「巨大機械」の思想が暗黙裡に採用されたのだ。

 例えば教育について考えてみよう。

 日本社会においては現在、初等教育から大学教育に至るまで、マスプロ教育(一人の教員が多数の学生を一律に教えること)が主流となっている。
 本来は個々人によって得意不得意もあれば理解度の深浅もあるが、現実には、授業時間内に授業内容を理解できる飲み込みの速い学生が優秀で、遅い学生は評価されない単純な構造となってしまっている。つまり、個人的性質――個々人がもつ身体的・精神的・社会的性質――にはバラツキがあり、状況によって左右される❖4にもかかわらず、それを平均化し、一元的に教育するカリキュラムが採用されている。
 そして彼らは卒業後、これまた一元的な就職活動という仕組み(ここに来て、人生において最初で最後の、個人的性質がやたらと求められる場面に遭遇するのだが)によって大小さまざまな規模の企業に就職するようになる。 
 個人事業主という選択肢をとる人々も中には存在するが、趨勢はこのようになっている。そして会社内では再び組織の歯車としての役割を全うすることを余儀なくされる。原則として近代社会はこのようにして成立している。 
 この事実をむやみに否定するつもりはないが、この「巨大機械」指向は、個人における個人的性質を排し、社会あるいは組織という巨大機械の支持体として矯正するための圧力と考え得ることに留意したい。

機械の部品の一部であることは、交換可能

であることを意味する。
 つまり、個人ではなく集団の中の一人間であることが最も重要である。さながら人間をモノのごとく扱うこと、ここに「巨大機械」指向の大いなる欠陥がある。 
 教育機関は一部の例外――巨大機械を操縦する側――を除いて、代替可能な思考レベルの平均的人間を生産し続けていると言っても過言ではなく、一方で社会もそのような人材を求めているという共犯関係が成立している。
 そして個々人もまた、平均化される事実の安息を享受している節がある。それらに通底する「平均思考」❖5は「巨大機械」を成立させる必須条件であろう。
 かつてフォーディズムが槍玉に挙げられたように、工業製品の生産ラインにおいてはこの巨大機械の部品としての人間を認識しやすい。だが、現代社会の至るところに、多種多様な巨大機械が蠢いている。この機械が最も厄介なのは、空間に出現しない「見えない機械 」❖6であるということだ。

 そして私は、この「巨大機械」の部品としての人間ではいられない人間にこそ注目したい。

 冒頭で言及した神経疾患者のみならず、たとえばセクシャルマイノリティ、宗教的・人種的マイノリティ、貧困者といった個人的性質をもつ人々が、近代社会において部品ではいられないという苦境を突きつけられた。そしてそれは現在まで連綿と続いている。

私は彼らの内にある可能性を<弱き者>と呼ぶ。

これは決してネガティブな意味ではない。部品ではいられないこともまた強さであることを示したいのである。
 先の具体例はあくまで個人的性質であり、〈強き者〉である必然性を欠いている、という意味でしか用いない。つまり、〈強き者〉≠社会的強者、〈弱き者〉≠社会的弱者であることに注意していただきたい。
 〈強き者〉とはまるで機械の部品のごとく大量生産可能かつ代替可能な人間を想定し、そして人間をそのように取り扱い、その不条理に対する痛みに鈍感になってしまった人々の総体である。
 そして、現在においてなお「巨大機械」の思想が駆動しているのであれば、〈弱き者〉は「巨大機械」とは異なる道筋を示し得る。
 〈弱き者〉は、〈強き者〉のもつ代替可能性を排している、という点で極めて個別的である。

 ここで、〈弱き者〉の最大の特質を〈不安定性precarity〉と捉えてみたい。


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