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図式で学ぶ線形代数 #4 ~行列が作るヒルベルト空間~

連載の記事一覧:
#1 図式の基礎と線形代数の基礎
#2 スペクトル分解と特異値分解
#3 テンソル積およびトレース・転置・内積
#4 行列が作るヒルベルト空間
番外編 列ベクトルや行列での微分
番外編その2 ベクトル解析


前回では,cup列ベクトルとcap行ベクトルを導入し,これらを用いるとトレースなどが素直な形で表せることを示しました。今回は,cup列ベクトルにより行列を列ベクトルに変換できて(逆変換もできます),$${m \times n}$$ 行列全体から成る集合 $${ \Complex^{m \times n} }$$ を $${ mn }$$ 次元複素ヒルベルト空間とみなせることを述べます。また,$${ n }$$ 次エルミート行列全体から成る集合($${ \mathbf{Her}_n }$$ とおきます)が $${ n^2 }$$ 次元実ヒルベルト空間とみなせることや,$${ n }$$ 次半正定値行列全体から成る集合($${ \mathbf{Pos}_n }$$ とおきます)が自己双対錐とよばれる構造をもつことなどを述べます。これらの構造は,量子論の数学的構造を理解するための助けになります。

行列 $${ X }$$ に対してcup列ベクトルを施すと列ベクトルになります。この操作を格下げとよびます。格下げは可逆な写像であり,その逆写像を格上げとよびます。図式上では,これらの演算を「曲がったひもをつなげる」だけで行えます。

なお,行列を列ベクトルとして表す演算として,一般にはvec演算とよばれるものが知られています。この演算は,$${ \mathrm{vec} X \coloneqq (I_n \otimes X) \ket{\cup_n} }$$ と定義できます。格下げとvec演算は単に成分の並び方が異なるだけで,本質的な違いはありません。成分の並び方について具体的に述べておくと,$${ 3 \times 2 }$$ 行列 $${ X }$$ に対して

$$
X =
\begin{bmatrix}
X_{1,1} & X_{1,2} \\
X_{2,1} & X_{2,2} \\
X_{3,1} & X_{3,2} \\
\end{bmatrix}, \quad
\ket{X_\cup} =
\begin{bmatrix}
X_{1,1} \\
X_{1,2} \\
X_{2,1} \\
X_{2,2} \\
X_{3,1} \\
X_{3,2} \\
\end{bmatrix}, \quad
\mathrm{vec} X =
\begin{bmatrix}
X_{1,1} \\
X_{2,1} \\
X_{3,1} \\
X_{1,2} \\
X_{2,2} \\
X_{3,2} \\
\end{bmatrix}
$$

となります(ただし $${ X_{i,j} }$$ は $${ X }$$ の $${ i }$$ 行 $${ j }$$ 列目の成分)。

格下げでは入力空間を出力空間に置き換えているとみなせます。逆に,格上げでは出力空間を入力空間に置き換えているとみなせます。このように,格下げと格上げは入力と出力を相互に変換するような演算であるといえます。

この命題で表される分解はシュミット分解とよばれます。シュミット分解は「特異値分解の格下げ版」といえます。

$${ XYZ }$$ の格下げは $${ Y }$$ の格下げに $${ X \otimes Z^\mathrm{T} }$$ を掛けることと同じであることが,図式からすぐにわかります。この形の式は,量子論でCP(完全正値)写像を扱う際にしばしば登場します。なお,vec演算についても同様に $${ \mathrm{vec} (XYZ) = (Z^\mathrm{T} \otimes X) \mathrm{vec} Y }$$ が成り立ちます。

行列は格下げにより列ベクトルに自由に変換できますので,$${ m \times n }$$ 行列全体から成る集合 $${ \Complex^{m \times n} }$$ が複素ベクトル空間とみなせて,その次元は $${ mn }$$ であることがすぐにわかります。実際,行列の通常のスカラー倍と和を考えれば,ベクトル空間の定義を満たすことを容易に確認できます。また,「ヒルベルト-シュミット内積」とよばれる自然な内積を導入すると,$${ \Complex^{m \times n} }$$ は複素ヒルベルト空間とみなせます。なお,量子論ではこの内積が頻繁に登場します。

2個の半正定値行列のヒルベルト-シュミット内積に関する基本的な性質です。

正定値行列とのヒルベルト-シュミット内積に関する基本的な性質です。

$${ \mathbf{Her}_n }$$ は $${ n^2 }$$ 次元実ヒルベルト空間とみなせます(複素ヒルベルト空間ではありません)。量子論では,複素ヒルベルト空間 $${ \Complex^{n \times n} }$$ を考えるよりもこの実ヒルベルト空間を考えたほうが素直な場合が多いです。

$${ \mathbf{Pos}_n }$$ は自己双対錐とよばれる比較的きれいな性質をもった空間です(対称錐でもあります)。

$${ \mathbf{Pos}_n }$$ の幾何学的な表現です。$${ n=2 }$$ の場合は円錐の4次元版の形をしています。

半正定値行列と非負列ベクトルは,似たような性質をもっています。なお,量子論の状態は半正定値行列で表され,古典論(古典確率論)の状態は非負列ベクトルで表されますので,これらの性質は量子論と古典論に共通の性質であると解釈できます。

半正定値行列のトレースとヒルベルト-シュミット内積との間に成り立つ不等式です。

与えられた射影行列の組に対して,和が射影行列であることと互いに直交することは等価です。

半正定値行列 $${ S }$$ と射影行列 $${ P }$$ に対して,$${ \mathrm{Tr}(PSP) ≤ \mathrm{Tr}(S) }$$ が常に成り立ちます。


全4回にわたり,量子論を学ぶ際に役立つ線形代数の基礎をひととおり説明しました。これでこの連載はいったん終わりです(ただし,番外編もあります)。お読みくださり,ありがとうございました。

連載「図式で学ぶ量子論」では,この連載で紹介した図式を活用して量子論について説明していますので,よろしければこちらもご覧ください。


この記事は,書籍「図式と操作的確率論による量子論」の内容の一部を紹介したものです(この記事のほうが詳しく述べている箇所もあります)。

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