見出し画像

「エモい」や「をかし」に潜むもの。

「エモい」という言葉が2018年の10代女子の流行語になることに警鐘を鳴らされている。


2000年代に流行した「ヤバイ」を例にだし、「エモい」が感性の腐敗を引き起こす危険性を紹介した。

2000年代前半だろうか。ヤバいという言葉が流行った。
問題が起きている状態、期待を超えた状態、予想外である状態など、全てをヤバいと表現する風潮があった。当時中学生だった筆者の周りにもヤバいを連呼する人はいた。どうヤバいの?ときくと「とにかくヤバい」と返ってくる。会話にならない。
コミュニケーションや考えることが好きだった筆者にとっては、この言葉は敵だった。会話が一気につまらなくなるから。ヤバいという言葉は思考するという楽しみを人間から奪う。 それと同じ現象が感性表現においても起きている。嬉しいときも、悲しいときも、切ないときも、エモい。
最近は若い人が自分で「私、コミュ障なんで」ということがよくある。当然だと思う。コミュニケーションの精度は言語化能力で決まる。それにおいて便利な言葉に甘んじ、語彙力を自ら退化させていることに気づいて欲しいと願うのだ。

読みながら、わかる部分もあった。ある一定の状況に対し同じような言葉を当てはめることで、先に考えを進めることができないことはあるかもしれない。

ただ同時にこんなことも思い浮かべていた。

古典で習った「をかし」。現代訳では”趣深い”というが、これも「エモい」のように一言ではいえなくて、言える範囲は広い。曖昧だ。そういえば江戸時代後期の国学者本居宣長も「もののあはれ」なんていう、言い表しがたく曖昧だが、いろんな物事にいえそうな感情の言葉を発見していた。

そもそも平仮名そのものが曖昧さを生みだす根っこだった。「おもう」は思うや想う、念う、憶うと書けても漢字を当てる前はすべて「おもう」に変わりない。万葉の時代の人は「かなし」を悲しや哀しだけでなく、愛しや美しとも読んだと教えてくれたのは『いきの構造』を書いた九鬼周造だったろうか。

平仮名には曖昧さを含んでいる。表現しきれないもの、言葉に近しいと感じられるものに余白を残し、受け入れることができるように。その含みに何か「日本的なもの」があるのかもしれない。

前に投稿した「日本文化は侵食されるのか、呑みこむのか」で、日本文化に新しい外からきたものを吞みこみ、自分のものにしてしまう性質があることについて考えていた。最近読んだ丸山眞男の『日本の思想』はまさに近いものが出ていて、「日本の抱擁性」と表現していた。

日本哲学は物心一如の世界である。…我々はマルクス主義を清算したときに、又日本民族の抱擁性を把握したときに、世界に於ける日本民族の新使命を自覚するであろう。


「エモい」というのは、抱擁性が発揮されたものなのだろう。「エモい」はエモーショナル(emotional)を由来とした「感情が動かされた状態」を表す。英語だったものをカタカナのエモに変換し、平仮名の”い”をつけて状態を表す形容詞にした。もともと外にあったものを包みこんで自分の言葉にした良い例なのかもしれない。

もちろん「エモい」の使い方によっては失うものもある。ただ「エモい」という言葉に罪はない。時代が生んだ一つのいい言葉だと僕は思っている。


サポートは心の安らぎであり、楽しみである読書のために書籍代にしたいと思います。それをまた皆さんにおすそ分けできたら嬉しいです。