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日本の面影

母校の大学で最近、もぐりとして日本の近代、近代の黎明期の精神の発展性と失われゆく精神、とでもいうべき講義を聴講しています。とりわけ小泉八雲による日本人の近代化への向かいかたへの危惧と、失われゆく日本人の感性についての愛惜ある記述は興味深く、とても考えています。

思うに小泉八雲の目にし、耳にする日本の音や自然、のみならず人々の風景は、雄々しさもゆかしく見ていたと思いますが、それ以上にはるかに、研ぎ澄まし愛したものは小さく、か弱い存在たちの音や姿や、それらの記憶だったといえましょう。

例えば虫の音。彼が愛した虫の音は一般の西洋人にはノイズとして響くもののはずです。あるいは子どもや女性。彼の怪談話がある種の戦慄を帯びて響くのは、そこにか弱い子どもや女性が、この世に力なきがゆえに儚く未練を残し、その記憶をこの現世へ現わして痕跡を残すからでしょう。いま、日本で生まれたと考えられる怪談の多くは実は八雲によってかつての説話を元に創作され直した、八雲の創作とのことですが、例え西洋人の創作を日本人がもともと自分たちが語り継いだものだという勘違いがあったにしても、それは倒錯としてではなく、自然に受け入れられたものとするなら、自分たちの中に八雲が想像したものを受け入れる土壌が既にあったのではないか、と僕は考えます。

八雲が西洋で自分自身が馴染めずやっと安息の地として見だした日本は「万国対峙」の状況にあり、既に帝国主義、資本主義の世界に乗り出す物質化と、西洋的シニシズムというものを受けとめたエリートたちに強引に率いられようとする日本でした。

八雲が記述する日本の面影を思うとき、なぜかくもアニミステックで、快男児がいて、子どもがのびのびして、自然に抱かれるように生きた日本人が太平洋戦争の総力戦にまでイッてしまったのか。その近現代の利便性と同時の、国家総力的な危うさを恐ろしく思うし、かくなってしまったぼくら日本人がなぜそこへ行き着いてしまったのか。そして今も舞台は変わりつつ、同じ要素が圧倒的なのか。深刻に考えざるを得ません。

さて、自分がひきこもり体験としてインタビュー受けたもののヤフーのコメントですが、全30ページ、850くらいのコメントの約4〜5ページ目以降はやはり甘えてる、税金の無駄遣い人間、親がかりだから出来ること、という印象のものが多く、それはやはり正しくそうなのだろうと思いました。僕としては一度世間の俗情は一旦受ける機会があったほうがいいとどこかで思っていたので、それは貴重なことでした。もちろんぼくはそれで自分が変わるつもりはありません。ただこれが民衆法廷のような場で直接に、ということになれば恐怖で震え上がるでしょうが。


ただ、最初の3〜4ページくらいまでには上記、小泉八雲が感じ、大事にしていた日本人の感性、そしてそれが西洋的物質主義、シニシズム、万国対峙の思想を危惧したように、それと同じような感性をコメントの中の通低音として響き聞けるものもありました。

ひきこもりの人たちが八雲のような日本人の面影をDNAに持つ、などと一絡げに言うつもりはありません。ただ、「繊細にすぎる」と言った時の繊細さは、八雲が記述した日本庶民の感性の何ものかと、どこかで繋がる気もするのです。

ただ、その八雲もお抱え外国人として日本に帰化しても捨てられる身でした。彼の愛した肯定的な「寂しさ」は、変わるべく向かう近代日本の活力主義とは折り合わないものでした。
もし、ひきこもりも和歌山の宮西照夫先生が言うように異文化の人たちだとすれば、日本人はある種の日本人の感性を殺そうとしているのかもしれない…と言うと想像は飛躍しすぎですが。そんなことも漂う気持ちの中で考えるところです。

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