心地よい暮らしマインドフルネス2019年7月

リトリート(泊まり込みの合宿)は最低3日欲しい。本当は数日から一週間あるといい。子どもが生まれる前は、伊豆へハワイへ丹沢へと、妻のヨガ合宿のサポートでたくさん旅をした。昨日終了した安曇野シャンティクティのマインドフルネス・リトリートは、参加者の顔が見慣れた家族になったところで終わった。なじんで安心して、初めて深まっていく。惜しみながら別れるのもまたいいものだが。

関東圏など遠くからの参加者が多い。シャンティクティという場の磁気に惹かれて、ぼくの知り合いやコラボした講師のつながりなど、一期一会の貴重な出会いである。「マインドフルネス」ってやるとどうなるんですか?という質問を受けることがあるけれど、自分に素直に、正直になっていくのだ。その結果どうなるかは知らないよ(笑)、あとはあなた次第だから。

会社勤めや長時間労働が悪いとは言わない。忙しい毎日だって充実していればそれでいい。のんびりした生活がすべてではないのだ。大切なのは、自分が納得しているかどうか、自らの本心に照らして。ぼくは社会から逸脱したヒッピーだったころのほうが、ずっとストレスがあった。今は以前ほど貧乏ではないし、容貌もさほどは逸脱していない(と思う)。他とは違うという摩擦感からくるストレスはまったくない。寺院の本堂、大学の教室、病院の療法室から大企業の会議室まで、体一つでどこへでも入りこめる。その方が、仲間内だけでグダグダしているよりスリリングで楽しい。

今回はwonder(不思議)に入ること、思い込みの世界を超えて今ここという未踏の地に入っていくことをテーマにした。著書でも、それがテーマになっている。いろいろなことがうまく集まって、wonderがいっぱいに、つまりwonderfulなことになった。そんなふうに、自分を、仲間を、畑を、調理を、食事を、歌を、空気を吸ったり吐いたりすることを、まるで初めてであるかのように探求するのは、この上もない楽しみだ。自然とみんな童心に帰っていく。それが「おさなごころ」=初心というわけだ。その感じが感得できれば、あとは自分で楽しんでいける。

目いっぱい遊ぶことが、深く探求することにつながっていく。リトリートはそうありたい。スペシャルコラボゲスト子松志乃子さんは、暇さえあれば楽健法や温熱療法で参加者やスタッフに手当てをするほど、日常に仕事が溶け込んだ人だ。人はいつの間に、仕事と生活や娯楽を分けてしまったのだろう? そんな必要はないのに。だから、生きることが苦しく感じられるのではないだろうか。今回は、杭のワークやスティックダンスで、お互いのinterbeingと信頼の実践の機会を提供してくれた。奇しくもそれは、ぼくのテーマと一致していた。

チャーリー宮本さんは48弦の「スワルマンダル」という琴を演奏し、チャンティングするアーティストだが、夜の部で眠りに誘う広大な音の海を連れてやってきてくれた。会うなりいきなり、「ようやくお会いできました!」といわれた。以下同感。コラボしようというお申し出を受けたので、東京あたり?で何かやりたい。Wonderfulなことを。

お二人とも、生活と遊びと仕事が混然となって、存在感をジワリと醸し出している方だ。シャンティクティの臼井夫妻、チャーリーのパートナーのたみさんや、自然農のうたさんもそうだ。彼らは、齢を重ねるほどに楽しくなっていく。「誰と一緒に過ごすか」は重大事だ。環境によって人は決まってしまうから。一人の意志はそう強くない。ぼくはとくに意志が弱い。こういう人たちに恵まれ、リトリートをさせてもらえることは、幸福以外の何ものでもない。

干支が数周まわってみると、幸福というテーマが気にならなくなっているのに気づく。胃痛が無いとき胃が気にならないのと同じように。人生を気にしてはいないが、過去、現在、未来に感謝している。60過ぎて路線変更は骨が折れる。ぼくはこのままいくだろう。仕事も、遊びも、生活も死ぬ瞬間まで続くお楽しみだ。どんな実を結ぶかわからないが、続けることに意味がある。

リトリートでは最後に、「鐘の音が消えても続いていく音に耳を澄ませながら過ごしてください」と伝えた。それが一番大切なことだから。父の死で知ったのは、止まっても止まらない呼吸だった。「共有された」からこそ終わらないのだ。鐘の音も「聴かれた」から続くのだ。

では、死んでも続く私とは、誰だろう? 夏休みの宿題です(笑)。

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