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インド初めての若者とデリー観光

海外旅行もインドも初めての若者と1日列車に乗るまで一緒に過ごす事になりました。タカエさんがアシスト 添乗員という感じです。図らずもデリー観光
まずメインバザールでインド観光

メインバザール に続く道

オートリキシャの値段交渉の仕方 実際にまず地元の人にリサーチ 2-3交渉して納得したところで乗車
地下のマーケットで買い物を済ませて公園で遊びたいというテンチャンの要望で

日本山妙法寺のある公園に

インド人の女の子に囲まれてご満悦の若者

日本山妙法寺の仏塔

インドにおける日本山妙法寺:石谷上人・森田上人の
思想・活動
― 藤井日達上人とガンディーの精神の継承― 林 明
1.藤井日達上人とガンディー
日本山妙法寺は、20世紀初頭に藤井日達上人1(185~1985)によって創設された日蓮宗系の教団 である。藤井日達上人は、それまでの日本仏教界の状況に不満を抱き、日達上人が言うところの真 の仏教者としての生き方を追求し、日本山妙法寺を創設し、戦前・戦後と活躍した人物である。そ の藤井日達上人は、仏教の精神をインドにもう一度蘇らせようとの西天開教の思いを抱き、1931年 にインドのカルカッタ(現在のコルカタ)に渡ったのを皮切りに、インドの各地で日本山妙法寺を 建て始めた他、193年にはインドのワルダでガンディー(1869~1948)と会見し、ガンディーに大 いに感銘を与え、ガンディーは、その後彼のアーシュラムの祈りの集会で唱える文句として、日達 上人の唱える南無妙法蓮華経を取り入れるなどした。藤井日達上人もガンディーに大いに感銘を受 け、以後、日本山妙法寺の活動は、紆余曲折はあるもののガンディーやガンディーの後継者たちと 歩調を共にしていくことになる。真の宗教者としての生き方を追求した藤井日達上人と(インドの 政治的指導者であったと同時に)宗教者・聖者でもあったガンディーとは基本的に相通ずるものが あったと思われる。 日本山妙法寺のインドにおける活動は、ガンディーが亡くなった後(1948年以後)も続いた。ガ ンディーが始めたサルヴォダヤ(全ての者の向上)運動は、ガンディー亡き後、ヴィノバ・バー ヴェー(1895~1982)、そしてJ.P.ナーラーヤン(1902~1979)へと受け継がれた2。藤井日達上 人がヴィノバ・バーヴェー及びJ.P.ナーラーヤンと交流を持っていたのはもちろんのこと、同じ く日本山妙法寺の今井行順上人は、ヴィノバ・バーヴェーの起こしたブーダーン(土地寄進)運動 (地主の心に訴えかけて地主から土地を分けてもらう運動)に参加し、インドをヴィノバ・バー ヴェーと共に行脚したりもした。藤井日達上人は1985年に亡くなるが、日達上人のお弟子さんたち
1 藤井日達上人の生涯については、藤井日達著・山折哲雄編『わが非暴力 藤井日達自伝』春秋社、1972年を 参照。
2 ガンディーが始めたサルヴォダヤ運動の継承については、拙稿「1970年代インドにおける「全面革命」運動 の展開とその歴史的意義」『史学雑誌』第9編第4号、39-54頁、190年4月及び拙稿「ガンディー亡き後の サルヴォダヤ運動― J.P.ナーラーヤンによる「全面革命」運動の歴史的意義」『国際基督教大学学報III-A ア ジア文化研究別冊10 アジアの草の根運動』国際基督教大学アジア文化研究所、69-94頁、201年3月を参照。
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は、その後もインドの各地で活躍している。現在、日本山妙法寺は、インドでは、デリー、ムンバ イ、コルカタ、ブバネーシュワル、ヴァイシャーリー、ラージギル、ダージリン、マドゥライ、サ ンカランコーヴィルにある。 筆者は、1986年からインドにおいて日本山妙法寺の活動を調べているが、特に206年8月13日~ 9月27日、2007年8月9日~9月16日の2回に分けてインド各地における日本山妙法寺をほぼすべ て訪れそこで活躍しておられるお上人方にインタヴュー調査を実施した。これにより、各地のお上 人方がどのように藤井日達上人、インド、ガンディーと関わったかの大まかな実態がわかった。 本稿では、その中でも筆者が特に詳しく行った、現在、南インドのマドゥライ及びサンカラン コーヴィルで活躍しておられる石谷上人(写真1)と西インドのムンバイで活躍しておられる森田 上人(写真2)へのインタヴュー調査を基に、石谷上人の思想・活動と森田上人の思想・活動を通 して、ガンディーと藤井日達上人との出会いから始まった日本とインドの交流の様相の一側面を提 示するとともに、広い意味でのガンディーの精神の今日のインドにおける継承のあり方を探るため の一助としたい。
以下は、石谷上人及び森田上人へのインタヴューを基に、両上人が話されたことを内容別に編集 したものである。なお、両上人の語りの雰囲気を大事にするために、インタヴューの内容は、で す・ます調で記すことにしたい。
2.石谷上人の思想・活動
藤井日達上人との出会い
私は、北海道の旭川出身で、真珠湾攻撃の前に生まれました。若い時、哲学書・思想の本などを 読んでいましたが、その書いた人の生き方に納得できませんでした。ごまかしがあり、本物は一人 もいないと思っていました。真理を指し示す人に出会いたいと思いました。真理を探す思いで麻薬 にも興味を持ちましたがこれは大きな間違いでした。日本の社会も、例えば憲法9条がありながら ベトナム戦争に協力し、それで高度成長するなどごまかしがあり、そのような社会の共犯者になる のが嫌でした。 そして日本を捨てる思いでインドへ行きました。生き直そうと思いました。ほんのわずかのお金 を持って行きました。ふらふらと放浪の旅をしました。インドのデリーでお師匠様(=藤井日達上 人)に会いました。お師匠様だけが真理にすべてを捧げている、自分を捨てている聖者であると思 いました。そのようなうそのない本物が現実におられることに私はびっくりしました。1974年にお 会いしたと思います。私の生き方、人生観が変わりました。私は1975年に出家をしました。そして いつの間にか30年以上続いています。それまで喧嘩をし、飲んだくれで、新宿歌舞伎町にいて、血 みどろの人生を歩いていた青年が世界平和に目覚めて出家することになったと、お師匠様は雑誌に
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紹介しました。お師匠様は妙法寺の教団の名誉や世間の信用など気にせず自分を受け入れてくれま
した。ガンディーと共通する生き方を私は見ました。
写真1 インドにおける日本山妙法寺の石谷上人(一番右)と筆者(一番左)
写真2 インドにおける日本山妙法寺の森田上人(中央)と筆者(一番左)
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藤井日達上人の不思議
お師匠様の回りでは、よく不思議なことが起こりました。お師匠様は宇宙と一体になっています。
雨が止んで光が射したり、お師匠様が昔に満州で会った女性について話していたらその老婆が訪れ
て来たりするなどという不思議な出来事の連続でありました。
石谷上人の出家の社会・思想的背景-1960・70年代の麻薬文化
ベトナム戦争の平和運動は、サルトルなどの自由思想の影響を受けていたが、平和運動自体が麻 薬の影響を受けていました。平和運動を行う人の中には、麻薬中毒者のヒッピーなども多く、麻薬 に犯された彼らの力がベトナム反戦運動に一役買っていました。ビートルズやオノ・ヨーコも麻薬 中毒者でした。麻薬患者は自由を求めます。内側から自由をわめきます。それは動物的であります。 裸になって反戦運動をします。反戦はエロスの力で勝ち取られたのです。この時代はエロスが平和 の力だと言う人もいました。麻薬の力で作り上げられた面もあった時代でした。 教科書で習ったことも麻薬の文化です。芸術・文化で特に麻薬は流行りました。ボードレール、 バルザック、ランボー、コクトー、サルトルなどがそうです。また、第一次世界大戦時も麻薬が流 行りました。 私も麻薬世代でした。麻薬的な物の考え方は、勝手気ままな考え方とも言えます。私は、欲望や 物質文明に負けたことが嫌でした。私は、徹底した生き方がしたいと思ったのです。そこで宗教に 向かいました。麻薬と宗教とは紙一重ですが、同じでは決してありません。麻薬による解放と宗教 による解放とは別物です。仏教による解放は、自己を律して己をコントロールするのです。麻薬に よる解放は、ただ単に個人がたがをはずして自由になれというわがままです。精神を、価値観を狂 気に変えてしまう力が麻薬にあります。麻薬的生き方・価値観が、麻薬を体験していない人々にも 影響している、これが現代の社会です。何とかしてこの精神面の混乱を正さなければなりません。 麻薬体験をしてしまった人は、麻薬はよいものであるという信念ができてしまいますから、麻薬を 否定するのは難しくなり、一生麻薬的生き方を続けることになります。ここから抜け出るためには、 心の底から内面変革しなくてはなりません。命を捨てる覚悟が必要です。信仰があってはじめて死 に直面することができます。
石谷上人の見る現代のガンディー思想
ガンディー思想は殺されています。ガンディーは二度殺されていると言えるでしょう。まずピス トルで射ち殺され、今はまた、物質文明に入らないと生きていけない今日の状況でその精神も殺さ れようとしています。私は「お前は非暴力を本気で信じているのか?」とインド人の上層経営者に 言われたことがあります。インド人でさえこのように思っていることに私は驚きました。数年前ま では一応ガンディーを祀り上げていたのに、最近は正面切って貶めています。ガンディーを、イン
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ド独立に関わった他の人たちと横並びにして、トップに立たせることを止めさせようとしています。 ガンディー暗殺を正当化する主張が表沙汰にまでなって来ています。金のためのガンディーアン (=ガンディー主義者)がいます。インドの精神性を覚醒させようとするガンディーアンは一人も いません。今までのガンディーアンの中からではなく、新しく若い世代が出て来るのを期待してい るのですが、ガンディーの教えに則った社会改革を行う人はいません。私は、必ずしもガンディー アンだからと言ってガンディーアンとは協力できません。むしろガンディーアンとつながらないが、 底のほうで共鳴する人と協力するのがよいと思います。ガンディーアンは命を差し出していません。 彼らから何も見出すことはできません。ガンディーを標榜するタミル・ナードゥの政治家はいませ ん。グジャラートでも生きたガンディーアンと言える人はほとんどいませんでした。ガンディーア ンは、組織の中で活動し、地位や生活のためにガンディーを利用しており、ガンディーから離れて います。他の国の人のほうがガンディーの心に共鳴しています。ですが、インド人の心には、ガン ディーの心が流れています。
ガンディーとは
ガンディーは法華経の教えの聖者です。菩薩行につながるところがあります。救いに応じて救い の形を変えたりした神はたくさんいます。しかし、その奥には永遠の仏がいます。仏の永遠性・真 理を求めるならばどんな形を取ってもよいのです。対立は起こりません。インドでは、仏教という 形では残っていないけれども、その教えはインド人の心の中に残っています。インド人の心の中に はお釈迦様の教えがあります。ガンディーが初めて仏教の教えを現代に体現したのではないかと思 います。 現代インドで、仏教の教えを表面的に復興したり、仏教教団を作ったりすることは目的ではあり ません。現代は格好だけのガンディーアンはいます。本当のガンディーアンはいないと、一般の人 々は言います。面と向かって「あなたたちは、格好だけで本当のガンディーアンではありません。」 と言われたガンディーアンたちは、苦笑いして言い返すこともできないのが現状です。また彼らが 行っていることは、小さいです。牛保護、禁酒程度の運動に物足りなさを感じます。ヴィノバは、 中印国境紛争の時、政府を支持してしまいました。お師匠様は、この時デリーと北京間を友愛平和 行進し、戦争を止めようとし、中国へ行き、周恩来等要人に働きかけました。途中で国境封鎖され 断念してしまいましたが。
石谷上人とスリランカ3
20数年前、スリランカのコロンボでシンハラ・タミル民族間の大暴動が起きました。シンハラ人 はタミル人の家を焼き払い、政府はただ傍観していました。コロンボはタミル商人が多かったから
3 ここで述べられるスリランカの民族紛争については、拙稿「スリランカの民族紛争とインド・スリランカ関 係」近藤則夫編『現代南アジアの国際関係』アジア経済研究所、71-109頁、197年3月を参照。
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です。その後、暴動はスリランカ全土に拡大しました。私は、ジャフナの平和のために、仏舎利を 胸にぶら下げながら歩きました。仏教徒であるシンハラ人がそのようなことをするとはと泣き、そ のお詫びとして歩きました。地元の人は平和巡礼を喜んでくれました。私は、仏教徒のためにとい うのではなく、ジャフナの平和のために行きました。カタラガマから歩きました。しかし、「行進 団が紛争の町に近付いて来たらマシンガンで皆殺しにする」という脅迫状がテロリストから大統領 に届いたため、行進を止めてくれと、大統領が、直々に歩いているところへ来ました。それで一行 は行進を止めましたが、私は、命を天に任せながら歩きました。3人の日本山妙法寺の僧も一緒に 歩きました。4ヶ月近く諸宗教の祈りをしながら歩きました。壊されたヒンドゥー教寺院へも行き 拝んだりするなどしました。ジャフナのヒンドゥー教指導者の中には、スパイを送って私たちの平 和巡礼を監視する人たちもいましたが、スパイたちは私たちの活動を見て、「あなた方を信用しま す。」と言ってくれました。日本からはお師匠様に「おまえは畳の上で死ぬ気か?ジャフナに生き方 がある。」と言われました。 私たちは、ついにジャフナに来て、最後の市中行進をしました。私は、ジャフナでは、民家はも ちろんのことヒンドゥー教寺院にも泊めてもらえませんでした。ですが、一軒だけ外ならよいと 言ってくれる寺院があり、寺院の外のひさしの下で寝泊りしました。ジャフナのタミル人は仏教徒 を敵と見ていました。 ジャフナでの平和祈念の毎日毎日は命からがらでした。ある時、暴動が起こったバス停に飛び込 んだ私は、そこで数々の死体を目撃しました。そこはがらりとして人はいませんでしたがシンハラ 人の兵隊がいました。私はそこで祈りを始めました。政府軍の司令官に立ち退けと言われ、脅しで マシンガンで撃たれました。その後、シンハラ人の兵隊がいなくなったら、タミル人市民がわっと 出て来て、彼らに崇拝されました。またある時、私は、タミル人青年テロリストに、「まず、仏教徒 の軍隊が殺した我々の仲間を見せてから、仕返しとしておまえを殺す。」と言われて、病院の地下に 連れて行かれ、死体を見せられました。私は、そこでもまた祈りました。このようにして、タミル 人市民は、私がシンハラ人にもタミル人にもどちらにもつかないことを認識していき、応援してく れる人も出て来ました。 しかし、テロリストには私は邪魔でした。なぜなら非暴力を唱えるので、武力闘争をしている者 にとっては敵であったからです。そして、彼らに、石をぶつけられたり、マシンガンで脅されたり、 ピストルで撃たれたこともありました。ある時、私が街頭修行の途中彼らに襲われていた時、誰も 助けに来てくれなかったことがありました。ですが、解放されて一人になった時、私は、市民に五 体投地で迎えられました。その時、私は、市民には、テロリストに正面切っては反対できなくても、 実際にはこれ以上血を見たくないという心情があり、自分の非暴力の主張が認められたと思いまし た。テロリストと市民との間に亀裂を生じさせることができるかもしれないと考えました。 しかしながら、状況が好転しつつあるように見えたこの時、私は、テロリストに、「石谷上人は、 実はアメリカのCIAの回し者だ。なぜなら日本はべったりアメリカ寄りだからだ。毎日太鼓を
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打ってジャフナの町中を回っているのは、スパイ活動のためだ。ピストルと録音テープを持ってい たので、タミル・タイガーのメンバーが石谷上人を取り押さえようとしたら、石谷上人はピストル を発砲し、空手と柔道であばれた。」とのデマを流されました。本当は、私が彼らにピストルで撃た れ襲われたのですが。このデマの結果、私は、市民から冷たくあしらわれるようになり、またスパ イ容疑をかけられ命を狙われるようになりました。 今井上人は、ジャフナにいても無駄だからジャフナでの活動はやめたほうがいい、とおっしゃい ました。私は、この言葉に迷い、心に不安が生じました。私は、お師匠様の10歳のお誕生日祝いに 出席するためもあり、またお師匠様に直接このことで相談するためもあり、ジャフナを出て日本へ 行きました。そして、日本で、直接お師匠様に、このまま紛争の町での平和祈念を続けてもよろし いでしょうかとお尋ねしたところ、「清らかに平和のために命を捨てて下さい、死になさい。」と言 われました。そこで私はジャフナに戻りました。 ところが、そこで不思議なことが起こりました。ある時、「お茶を飲んで行きませんか。」と誘わ れ家に入ったところ、その家の男の人が私の手相を見て「おまえは死なない。おまえはこれからど この国かわからないけれど外国へ行く。」と言いました。その後、お師匠様から手紙が来ました。 「南インドのタミル人から南インドの最南端のカニヤークマリに仏舎利塔を建ててほしいという要 請があったからインドに行きなさい。」という内容でした。お師匠様は、タミル人が住む南インドか らスリランカに平和を働きかけることが得策だと考えたのでした。私は、カニヤークマリに行きま した。そして最南端の海岸で断食を勤めました。 その時、ジャフナで横塚上人が10月28日に殉難にあったという電報が届きました。彼は、祈って、 ピストルを向けるテロリストを礼拝した時、体に、全部で合わせて7発撃たれたのでした。32歳で した。腹のすわった若者でした。彼は、亡くなる前に母親に手紙を書き送っていたそうです。彼の 両親の嘆きは、それはすさまじいものであったようです。横塚上人の死はスリランカの人々の心に 残っています。これが平和の種を蒔く大きな力となります。私は、またスリランカに戻り、ジャフ ナへ一人で入り、横塚上人の殺された路上に座り断食を行いました。スリランカ政府の使いが止め に来ましたが、私は、止める気はありませんでした。仏教の国でありながら僧侶を死なせてしまう のは面目が立たないと考えたスリランカ政府は、お師匠様に電話をしました。お師匠様は、政府の 体面があるのだから今回は止めよ、と説かれましたので、私は、断食を止めました。横塚上人初七 日の日のことでした。お師匠様はそれからほどなくしてご遷化されました。
石谷上人のインドでの活動
スリランカから南インドに行って後、南インドには10年間以上います。 南インドには仏教徒が多くありません。無理に仏教寺院を造ろうとしないほうがいいです。信仰 だから押し付けはよくないです。村の人を重視し、地元の人の労働奉仕や協力を大切にしています。 ですが、ヒンドゥー教徒に中傷されることもあります。週刊誌に、「日本から来た仏教僧は、村に小
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住宅を三千戸建て、それを不可触民に無料で与え、全員を仏教徒に改宗させる目的だという噂だ。」 という記事が載ったことがありました。もちろん本当ではないですが。それ以来、秘密警察が取り 調べに来て迷惑したりしました。また、アンベードカルが独立後、新仏教を作り出し、ヒンドゥー 教と対立した動きとだぶらせて、誰が見てもうそだとわかることをわざといやがらせのため週刊誌 に記事を書かれたこともありました。今日のインドでは、仏教への改宗は、真に仏の道に帰依して ではなく、多くは政治絡みであり、ヒンドゥー教との争いから生まれています。私は、そのような 人たちとは関わらないようにしています。 しかし、私は、考え方や宗教が違っても平和の祈りや集いなら呼ばれたら行くようにしています。 スリランカの問題も南インドから平和を呼びかけています。政治的なことには関わらないが、殺生 は許さない、そういう立場から活動を行っています。シンハラ人はジャフナのタミル人を憎み、 ジャフナのタミル人はシンハラ人を憎んでいます。ノルウェーの仲介による停戦は、契約取引に過 ぎません。心の憎しみや恨みを取り除かなくては根本的な解決はできません。外国からの援助は、 政権を取っているシンハラ側に流れ、ジャフナのタミル人に行き渡っていない、従って、シンハラ 政権をつぶせばよいという意見もあります。私は、少数者であろうと暴力を認めるべきではないと 思います。私は、仏教徒ではない南インドのタミル人に私の意図をわかってもらい、南インドのタ ミル地域からスリランカに入りたいと考えています。スリランカのタミル人を非暴力に改めさせる には、同じ民族である南インドのタミル人に信用を得て、彼らに協力してもらうことが必要です。 今、ジャフナに行ってもただ問題をこじらせるだけです。私は、まず南インドのタミル・ナードゥ 州に仏舎利塔を建て、南インドのタミル人に信用を築いてからジャフナに働きかけたいと思います。 それが融和への一歩になるでしょう。
3.森田上人の思想・活動
出家のいきさつ、藤井日達上人との出会い
私は、ものすごい神経質で、小さい頃から正しいことをはっきりきちっと言えませんでした。そ
ういう自分に非常にコンプレックスがありました。きちっとしたことを言えない、正しいことを主
張できない、そういう自分に対して非常に嫌悪感がありました。それで、正しいもの、真理なるも
のに憧れたり、そういうものをきちっといえる人間になりたいと思いました。色々な小説を読んだ
り色々なことをしましたが、最終的には日蓮上人に惹かれました。それから、私は、生まれた年月
日がありますけども、小さい頃から自分は必ず前世にいたんだといつも思っていました。また、私
は小さい頃遊びながら自分のうちの門を見ては、私は、必ずこの世界から、必ずこの家から出るか
ら、この門構えを忘れずに覚えておこうとそういうふうに思っていました。ちょうど家の兄弟のこ
とで霊感のある住職さんに色々と占ってもらったら、この子は将来必ず事故死するから出家させな
くてはいけないと言われたこともありました。真理を求める、強いものを求める、正しいものを求
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めるっていう気持ちがあって、高校の1年か2年くらいの時に自分で日蓮宗にちょうど改宗しまし た。そして、高校を出てすぐ出家しました。 こんなこともありました。私は、宗教的関心があったので、ある時、仏壇でお題目を自分で唱え ていました。そうしたら、よく金縛りってありますが、金縛りではなくて、自分でわかっているの ですが、自分の魂と肉体が地球の中にすーっと入っていくのです、地中に入って行くのです。落ち ていくなあと思って、落ちて行くと、あるところにぽっと出るのです。その時自分はもう僧服を着 てるのです。そこで、大平原がありまして、そこに小石が積まれているのです、賽の河原みたいに。 それがもう無数にあるのです。私はもう出家していて、お題目を唱えて、石を積んだ墓標をずーっ と歩いて回りました。そして、ぱっと目が覚めたら学校に行く時間、朝起きる時間だったのです。 変な、そういう宗教的体験をしました。 このことも話しましょう。私は、出家してから20年後に日本に帰った時に、テレビドラマを見て いました。それは、渡辺淳一が書いた『静寂の声』をテレビドラマ化したものです。それは乃木将 軍の奥さんの乃木静子のことを書いた本です。私は、小さい頃から乃木将軍にすごく関心がありま した。乃木将軍は日露戦争で活躍した人物ですが、その日露戦争でうちの森田の曾爺さんが旅順で 亡くなっているのです。そのテレビドラマの中で、亡くなった方の戦没者慰霊祭で乃木将軍の乃木 静子さんが主宰で祭壇を設けていたロケーションが、広いところだったので、確か富士の裾野だっ たと思うのですが、そのロケーションが、私が20年前に見たそのロケーションと感じが同じロケー ションだったのです。私は、その時わかったのですが、ああ、自分の過去世というのはやっぱり日 本の戦争のために協力して、戦争の時に人を殺したそういう過去世であったのだと。私は、今生は 平和のためにやっぱり挺身しなければいけないと、戦没者を慰霊しなければいけないと。そのため に私は出家したのだなと思ったのです。 私は、高校時代に色々と宗教的なものに触れました。私の高校は札幌の郊外にあったので、雪が 降ると時々休みになったのですが、私は、図書館に行って本を読んでいました、真面目だったので すね。札幌の時計台は有名ですが、この時計台には昔図書館がありました。その図書館です。他の 高校生は遊び回っていましたが。図書館でそのときぱっと読んだ本が矢内原忠雄先生の『余の尊敬 する人物』だったのです。矢内原先生だったの。その矢内原先生の尊敬する人物の中に日蓮上人が いました。それを読んでものすごく感動しました。こういう方が日本におられたって素晴らしい、 こういう方になりたいと思ったのです。 私は、高校を出たらすぐ日蓮宗のお寺に出家したのですが、そこは自分の理想としていた日蓮上 人の世界ではなかったです。それで、そのお寺に祀られてあった日蓮上人のお像に願掛けしました。 そのお像は、札幌では重要無形文化財で古いお祖師様で、ありがたいお祖師様でした。そのお祖師 様に、日蓮上人様にお会いさせて下さいって願掛けをしました。日蓮宗の教団を、世界中太鼓を 撃って回るような教団にして下さい、日蓮上人の教えを、自分が研鑚して、自分の本当のものにな るようにさせて下さい、とお願いしたのです。私は、その日蓮宗のお寺を出て、東京に行って、東
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京のお寺で随身しながら、働きながら立正大学の夜間部に行ったのです。それは、東京にいるため の口実でもあったのですが。その時に日本山のことを知らされました。日本山は、靖国神社の真裏 に九段のお寺があります。お師匠様(=藤井日達上人)が帰る時にお参りに行きました。お勤めが 終わってお師匠様がこちらに向かわれてお話を始めたのですが、そうしますともうその仏性という か、お師匠様が、そして本堂がばーっと光り輝くのです。自分は目をこするのですけれど、輝くの です。私は、お師匠様を日蓮上人様の再来でもあるまいしと思っていたのですが、それから日本山 に入って、お師匠様に接して、ああ、日蓮上人様というお方はこういう方であったのだなと思いま した。私は、日蓮上人様を拝むことができたのです。自分の願が叶ったわけです。今時計台は、図 書館ではなく記念館になっていまして、そこでは、札幌市内にある色々な重要無形文化財などの写 真が展示されています。その中に私の日蓮宗のお寺のお祖師様もあったと思います。不思議な因縁 だなと思います。自分の今まで来た道は、歩むべくして歩んだのだなと思いました。 うちは独立教会で、母親のほうのおじさん、おばさんは独立教会ですごくいいを信仰しています。 だからそういう信仰は母親のほうから頂いたわけです。そういうふうに生まれついたと思います。 私は、母親のことを今では神様だと思っていますが、昔は母親に対して反抗していました。母親に 対して申し訳なく思っています。そういう懺悔の気持ちもあります。 自分の過去世は、さきほど言いましたけれども、日本を戦争に導いた、戦争のほうに扇動したほ うかなと自分で思っています。だから、今生は、平和のために扇動はしないですけれども、平和の ために祈るような者になって自分は幸せだと思いました。私は、法華経の中の教えの中で、仏教の 教えの中で生きています。太鼓の音を聞いて、お題目を聞いて、ああ有り難いな、平和の祈りだな と思って拝む人もいるし、誹る人もいます。けれども、結縁というのですが、拝む人も誹る人も両 方とも世を重ね代が代わっていつかはまた成仏するというのです。だから、仏教というのは尊いな と思いました。
ガンディーと藤井日達上人の祈りについて
お師匠様は、太鼓の祈りで三千世界を動かすことができるということを示しました。演説したり、 組織したり、平和大会をしたり、コンピュータで世界の皆さんに訴えたりすることもいいことで しょう。だけれども、祈りが最も大切なのです。 ガンディーは、最終的には祈りで、独立運動をなされたのです。内なる力です。世界は、精神文 明で救えるのですという証なのです。祈りなのです、祈り無しではやっぱりできないのですよ。マ ザーテレサは、あれだけのことをされていますが、必ず朝晩はお弟子さんと修道院でひざまずいて お祈りをしたわけです。それがないとあれだけのことはできないわけです。
ガンディーと藤井日達上人の類似点・相違点について
お師匠様はやっぱり法華経第一と言っています。ガンディーは、すべてはヒンドゥー教の中に含 10

まれていると言っています。それが相違点です。 類似点は、ほとんどが類似点です。性格も似ています。お師匠様は、本当に、信念が金剛石のよ うに堅いです。戦前、関東軍、満鉄が主宰した講演会があったそうです。関東軍とか満鉄というの は日本の超エリートでした。その時、雛壇にお師匠様が並ばれたそうです。皆は、最初、尼さんの ように柔和なお坊さんがおられるなと思われたそうです。ところが、演壇に立って話をされたら口 から火を吐くごとく満州国のあり方を批判したそうです。お師匠様は演説をやめるように言われる と、「しばし待て。まだ話がある。」と言ったそうです。その時の意気込みがすごく回りは圧倒され てしまい、お師匠様は話を続けたそうです。ガンディーも絶対に曲げないです。ガンディーはやっ ぱりそこが素晴らしいです。絶対妥協しません。真理を貫き通します。ガンディーほど頑固な方、 お師匠様みたいな頑固な方はいなかったのではないかと思います。ですが、ガンディーもお師匠様 も、信念は固いけれども、柔軟で、教条主義的でないです。そして、花の蕾のように優しいのです。 ジーザス・クライストからお師匠様、仏様、ガンディーまで宗教者の素晴らしい人というのは、最 高に人間性が素晴らしいです。お師匠様ほどお弟子さんに対する愛情をかけた方はいないです。だ からこそ厳しいのです。もうこんな恐ろしい方はおられないと思うくらいです。だけれども、お弟 子さんを思って叱るのです。
森田上人のインドでの活動
私は、ムンバイで異なる宗教教徒間の暴動があった時に、太鼓を撃って回っています。そうする と町が平和になっていくわけです。警察も和むわけです。私が嬉しかったのは、暴動により外出禁 止令が出されていて軍隊とプレスと警察の車しか動けなくて町が戦々恐々としていた時、太鼓をた たいて町中に出て行ったのですが、アパートから顔を出していたキリスト教の人たちが私に対して 「ゴッド・ブレス・ユー。」と、つまり神の祝福あれと私に対してシュプレヒコールしてくれたこと です。私はその時、ああ、出家して本当によかったなあと思いました。
4.石谷上人・森田上人の思想・活動から見える藤井日達上人とガンディーの精神の継承
以上、両上人が話されたことを内容別に見て来た。 両上人とも、若い頃の内的な葛藤の中から、精神的に目覚め、宗教的なものに惹かれていった。 そして両上人とも藤井日達上人の魅力と出会い、藤井日達上人の下で日本山妙法寺の僧侶として歩 んでいくことを決意した。これは、ガンディーの時代に生きた当時のインドの若者たちがガン ディーに惹き付けられていった状況とよく似ている4。 さて、藤井日達上人はガンディーに大いに感銘を与えると同時に、藤井日達上人もガンディーに
4 この点については、拙稿「ガンディーの足跡を辿って」『サルボダヤ』VOL4.6-11、23-29頁、206年11月 を参照。
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大いに感銘を受けたのであるが、両上人は、その藤井日達上人を通してガンディーにも触れていく ことになった。 藤井日達上人とガンディーの重要な共通点の一つは、肉体的なものにとらわれず、精神の力、人 間の内なる力を信じて活動したところにある。 ガンディーの思想の本質は、人間の内面変革であり、それに社会改革とさらに政治的変革が加わ ることによって、理想とされる人間社会が実現されるとするものである5。ガンディーにとって、 内面変革が最も必要とされる理由は、社会は一人一人の人間から成り立っており、望ましい社会は、 道徳的に十分発達した個人によってのみ維持されうるからである。また、ガンディーは、人間は暴 力によって変わるものではなく、非暴力によって相手の心に訴えることによってのみ変革できると 見ていた。彼は、非暴力の精神の実践や不可触民差別の撤廃などの問題を通じて、この課題に取り 組んでいった。ガンディーの非暴力は、相手からの攻撃に対し、精神力で対抗しようというもので あり、自らの肉体の痛みや死を恐れない勇気が必要とされる。 藤井日達上人は、撃鼓宣令(ぎゃっくせんりょう)という方法を重要視している。これは、南無妙 法蓮華経という題目を唱えて団扇太鼓を叩いて歩くことであり、人々の仏性を喚起し、法華経への 帰依を導く実践であった。お題目を唱えながら祈るのである。祈りの力でもある。これは、精神的 なものを最重要視した考え方である。そして、藤井日達上人は、自分の身(=肉体)の危険を顧みず、 信念に従った行動を取っていたが、また、お弟子さんにも、肉体を乗り越え、精神の強さを持って、 行動を取るように指導していた。スリランカのジャフナでの横塚上人の殉難や石谷上人の死をも恐 れぬ行動にそれが表れている。 石谷上人・森田上人両上人ともガンディーの思想や行動を高く評価しておられるのは、以上のよ うに、藤井日達上人とガンディーの思想や行動の共通点があるゆえであり、両上人とも藤井日達上 人を通してガンディーに触れ、インドでガンディーの精神を継承しようと行動しているのである。 具体的には、インドや日本での平和行進、お題目を唱えることによる平和への祈り、仏舎利塔建設 などである。 なお、両上人の下には、彼らに惹き付けられた新しい人たちがいる。例えば、石谷上人の感化を 受けて、日本人の若い女性木村千草さんやタミル人女性リーラーさんが出家し、現在石谷上人と活 動をともにしている。 ガンディーの精神は、藤井日達上人を通して確かに石谷上人や森田上人に引き継がれ、また新し い世代に引き継がれようとしている。
5 ガンディー思想の構造については、拙稿「1920年代インドのアーンドラ地方における反英非協力運動―ガン ディーとの関係を中心に―」『史学雑誌』第96編第10号、67頁、1987年10月を参照。

インド門を訪れ
インド門 は、インドのデリーにある慰霊碑。パリのエトワール凱旋門を基にエドウィン・ラッチェンスによって設計された門型のモニュメントで、第一次世界大戦で戦死したイギリス領インド帝国の兵士を追悼するために造られた。 高さ42mのアーチには、第一次大戦で戦死したインド人兵士の名が刻まれている。
その後夕食

南インドのターリー ドーサを食べ口直しにケンタッキーフライドチキンでチョコレート マンゴーシェイクフラグポテトを食べ

ニューデリー駅へ
図らずもニューデリー観光

車中の人となりました。

インドニューデリー旅行中 🇮🇳
デリーからプッタパルティ移動中

インドの駅の使い方レポート
https://www.google.com/amp/s/52theworld.com/post-3938/%3Famp%3D1

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