東京ミュウミュウはれたすのビルドゥングスロマンである

東京ミュウミュウは「いちごの物語」ではなく「れたすのビルドゥングスロマン」である。

ビルドゥングスロマンとは「教養小説」という意味である。わかりやすく言うなら「成長物語」である。ハリーポッターや映画版のドラえもんをイメージしてもらえれば伝わり易いだろうか。

この東京ミュウミュウという物語は基本的にれたすにろくなことが起こらない。「同級生に苛めに遭う」「初恋の相手の背中を(結果的に)押して他の女性にプロポーズさせてしまう」「憧れの人形職人に自分の作品を盗作される」「白金に好意を寄せるも当の本人は親友のいちごのことが気になっている様子」

思いつく限りでこの有様。しかも最後のケースに至っては意味ありげに伏線っぽく描かれているのに関わらず回収が全くされていない。僕は勝手に後に、れたすの嫉妬がなんらかの悪の力と共鳴してしまい(もの凄いベタな展開ではあるが)いちごVSれたすの展開に発展するのだろうと思っていた。れたすにフォーカスが当たりそれなりに良いメッセージを組み込めると思うのだが。本当にれたすは不遇な扱いを受けている。

打って変わって、いちごの全能感である。特に努力をせずとも(もちろん全くしていないわけではないが)学校のアイドル青山君のパートナーになり、白金とも良い関係を築き、キッシュに至っては盲目的に追い求められている。そもそも東京ミュウミュウのメンバーはいちごだけが特別で、あとのメンバーは(言い方は悪いが)メンヘラに描かれている。

「本当は友達が欲しいのだが自己愛とプライドが邪魔をして上手く表現できずにその反動で犬やお兄様に強烈に依存してしまうみんと」「複雑な家庭に育ち親の愛情を知らないが下の兄妹達の手前、自分から弱さも見せられずピエロに徹するも、幼稚園の先生に母性を感じた瞬間、泣き叫んでしまう。ギリギリで生きているプリン」「幼い頃から芸能界という世界で汚い政治、醜い大人を相手にして自分を守るため東京ミュウミュウのメンバーにさえ敵から入ることでしかコミュニケーションをとれないざくろ」

そんなメンバーがいちごに触れ、ときにはその天真爛漫さに救われ、ときにはその全能感に憧れたりして癒されて成長していく。「今がどんなに苦しくても人は出会いと環境によって変われる」というのが東京ミュウミュウの大きなメッセージの一つなのだと推論する。また(これまたベタではあるが)人が成長する為には、どうしても試練が必要なのだ。

しかし、しかしだ。碧川れたすだけ試練の数が非常に多い。これは、れたすが一番、一般視聴者が感情移入がしやすいキャラクターであるからだろう。

「みんなイライラすることやムカついていることがあって私のことを苛めてるんだと思うんです。そんな悩みを話しあえたらいつか仲良くなれるかもって。だからもうちょっと頑張ってみます」

この台詞はなにも最初の苛めのパートだけでなく作品全体のれたすの思想、決意表明である。しかし僕は度重なる試練の途中に彼女の「なんで私達って試練がないと成長もできないんだろうね?」という僅かな諦観を感じてしまう。感じてしまう作りになっているのだ。そこに一般視聴者の(ピンポイントに言うなら「少女から大人へ成長中の女性」「成長を拒絶している女性」「成長してしまって何処にもいけない女性」に深く刺さると推論する)感情移入の余地が多いにあるのだと思う。

そもそも魔法少女アニメの本質とはなんなのだろうか。とりわけ魔法少女アニメを見る少女達は魔法少女アニメに何を求めているのだろうか。それは「成長の否定」なのではないかと思うのだ。少女の成長過程には男性には考えられない程の不安と絶望があるのではないだろうか。「一般的に胸が大きくなっていったりして男を誘惑する体に強制的になっていってしまう」そんな恐怖心があるのではないだろうか。しかし否応無しに体は成長していってしまう。その絶望感は男性には計り知れないだろう(個人的には多感な時期にこういった経験をするから一般的に男性より女性の方が大人っぽくなるのではないかと思う)

先程、少女は魔法少女アニメに成長の否定を期待しているのではないかと書いた(また普段「女らしくいろ」や「綺麗であれ」のような無言のプレッシャーを浴びせられる「現実の私」より「自由な彼女達」が魅力的に見えるのはある意味、必然ではあるのだろう)その証拠に魔法少女アニメの敵は大体が「大人」である。少女にとって成長とは禁断の果実なのだ(魅力的な部分もある)齧ったら抗うべき存在になりうる。そんな存在と(自分の代わりに)戦ってくれる彼女達に憧憬の眼差しを向ける少女達。いちごに憧憬の眼差しを向ける他の東京ミュウミュウメンバー(特にれたす)のように。

僕は全てのコンテンツとは触れた人にある種の「気付き」を与えるものであると思っている(或いはあるべきだと思っている)東京ミュウミュウは魔法少女アニメの宿命「成長の否定」を偽善的に扱いながらも「それでも成長しなければいけない」というメッセージを強く押し出しているのではないだろうか。SMAPに世界に一つだけの花で「ナンバー1よりオンリー1」と歌わせながらも同じジャニーズアイドルである嵐にハピネスで「それでも(その上で)やっぱりナンバー1を目指すべきだ」と歌わせたように。

冒頭に「東京ミュウミュウという物語は基本的にれたすにろくなことが起こらない」と書いた。それはある種、露悪的に碧川れたす(キャラ的にも能力的にも1番、一般視聴者に近い)に試練を与えて彼女の成長の過程を見せることによって「魔法少女アニメが必要な少女達」に少しでも成長、前進してほしいというクリエイターの悲痛な叫びでもあるのではないだろうか。

「そんなふうに生きれないよ」と絶望する前にもう一度、碧川れたすに向き合ってほしい。たとえ東京ミュウミュウという居場所に依存して、メンバーに見守られているときだけカナヅチを克服できるような仮初の成長だったとしても、それはとても小さな、しかし確実な前進なのだから。

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