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【無料公開】ゼロからの上京物語~長崎のニートが芸能界へ~

【はじめに】


自分だけ取り残されているような気がした。
みんながキラキラと輝いていて、羨ましかった。
2010年10月2日、僕は20歳の誕生日を迎えた。長崎の実家の自分の部屋で一人寂しく。
「誕生日おめでとう」「これで大人の仲間入りだね」などの祝福の言葉をかけられることはもちろんなかった。そんな僕をよそに、中学・高校時代の同級生たちは華のキャンパスライフを謳歌していた。
「みんな、いいなあ」そんな気持ちと「俺の20代はどうなるんだろう」という大きな不安が僕を襲っていた。
そんな状況でスタートした僕の20代。
この数年後、「芸能界」という世界に自分が身を置くことになるとは、当時の僕は想像もできなかった。

【第一章 僕の基礎】

無趣味な父・掴みどころがない母

 「はい、オッケー!!本日の撮影は以上になります。」、特に何か盛り上がるシーンではなかった。家族で食卓を囲んでいるシーンを撮り終えたところでその日の撮影は終了した。
 テレビでよく見る俳優さんや女優さんが次々と帰っていく。その横で、エキストラの引率で現場入りしていた僕はスタッフさんに混じって食器類の片付けを手伝っていた。茶碗を重ね、箸をかき集める。その動き、手の感覚に懐かしさを覚えた。
父、母、僕、弟。家族4人で卓を囲み、テレビを見ながら、時には雑談しながら夕食をとる。食べ終わったら、各自、使った食器を台所の流しに持っていく。どこの家にもあるごく普通の光景だと思う。これが楠本家の食卓だった。当時、小学生だった僕もまた、どこにでもいる普通の子供だった。

1990年10月2日。長崎県長崎市に楠本家の長男として僕は生まれた。その4年後には弟が生まれ、家族4人で暮らすことになる。
父はサラリーマン。大手企業の下請け会社に勤めていた。実際にどんな仕事をしていたのかはよくわからない。家庭で仕事の話をすることはなかった。中学を卒業後、一浪して地元の高校に入学。高校を卒業後は、また一浪して福岡の大学に行き、その後、就職したとのこと。
特に趣味があるわけではないようだった。強いて言うなら、ダラダラと酒を飲むことぐらいだろう。酒癖はあまり良いとはいえず、酔うと急に態度が大きくなる人だった。グラスに氷を入れて持ってこいだの、お湯割りに使うお湯を用意しろだの、あれこれ命令してくる。こっちが拒否反応を見せると不機嫌になる。そんな感じだった。僕も機嫌の良し悪しが激しいほうなので、ここは父に似たのだろうと時々思う。
そんな父の普段の性格はどうだったかというと、人当たりがよく、みんなからは「くすもっちゃん」と呼ばれ、友達も多いようだった。僕も幼少期には、父の仕事仲間や父が所属していた和太鼓チームの人たちにいつも可愛がってもらっていた。
一方、母はどうだったのかというと、地元の大学を卒業後、福岡の印刷会社に就職したと聞いたことがあるが、その後の詳しい職歴はよくわからない。性格は説明するのが非常に難しい。タモリさんのような人と言っていいのだろうか。基本的にテンションが一定に保たれていて、浮き沈みが少ない。ただ、面白いことがあればもちろん笑う。そんな感じだ。
趣味はパッチワーク。週に1回パッチワーク教室に通っていて、家でも暇さえあれば縫物や編み物をしていた。僕のシューズ袋や体操服を入れる袋は母の手作りだった。


人見知りの息子

性格的には正反対の楠本夫妻だが、行く先々に我が子を連れていくということは共通していた。
母も父と同じく、僕をあちこちに連れて行った。買い物はもちろん、ママ友とのお茶会にも行った。パッチワーク教室に同行したこともある。僕を祖父母に預けて一人で出かけるという選択肢もあったはずなのだが、なぜそうしなかったのかは、よくわからない。
そんな母が、自分のことと同じくらい熱心になっていたことがある。
それは、僕を色々なコミュニティに参加させることだった。ミュージカルの劇団に入ったり、水泳教室に通ったり、サッカー教室に通ったり、僕が泣こうが喚こうが、人がいるところにとにかく僕を放り込んだ。そんなことをしていた理由をちゃんと聞いたことはない。だが、幼少期の僕は極度の人見知りで、人と目を合わせることもできないぐらいひどかった。恐らく、この人見知りの克服が狙いだったのだろう。
 結局、ミュージカル劇団は公演に一度出演しただけで退所。サッカー教室は見学に行っただけで何もせずに終わってしまった。
 まともに続いたのは、水泳教室だった。3歳頃から通い始め、小学校3年生ぐらいまで続いた。なぜ水泳だけ続いたのか自分でもよくわからないのだが、通うことに特に抵抗もなく、途中からは母の付き添いもなく一人で通うようになっていた。そのおかげで、泳ぎは得意になり、友達もできた。肝心の人見知りはどうだったのかというと、全く効果なしだった。ビフォーアフターにあそこまで変化がないのも珍しいと思う。いろいろと尽力してくれた母には申し訳ない。今となってはそう思う。


最初の分岐点

 約6年間続いた水泳教室だったが、とうとうそれも辞めるときがきた。
「野球をしたい」と僕が言い出したのだ。それまで自分の意見を言うことなどなかった僕が初めて意思表示をしたことで両親は驚いただろう。
元々、学校が休みの日にはスポンジボールとプラスチックのバットを持って父と一緒に近所の公園に行って遊んだり、家で巨人戦を見たりしていたので、野球には馴染みがあった。ちなみに当時の僕は松井秀喜選手が大好きで、東京ドームのスタンドの上にある看板を直撃するホームランを楽しみにしながら、テレビにかじりつくようにして観戦していた。
じゃあ野球を始めるきっかけは松井選手に憧れたからなのかというと、そうではない。友人が少年野球チームに入部したのを知ったからだった。その友人は河本くんといい、幼稚園も一緒で家族ぐるみで仲良くしていた。河本くんがやっているんだったら僕もやりたい。そう思って、両親に直談判したのだった。これが野球との本格的な出会いだった。ちなみに河本くんとは高校まで同じチームで苦楽を共にすることになる。
このときから僕の生活は野球を中心に回り始めた。人生でいくつか分岐点があるとしたら、最初の分岐点はここだろう。
あれから20年が経とうとしている。河本くんは僕を覚えているだろうか。僕に野球を始めるきっかけを与えてくれた彼には本当に感謝している。(彼にはそんなつもりはないだろうが。笑)
この「野球」が楠本謙という人間の基礎を作っていくことになるのだ。

【第二章 2人の先生が教えてくれた大事なこと】


「やる気がない・意欲がない」

 小3で少年野球チームに入部した僕は、すぐに2軍の試合に出してもらえるようになった。打撃は下手だったが、走塁と守備はそれなりにできる方だった。4年生になってからは時々、1軍の試合にも出してもらえるようになっていた。5年生と6年生がメインの1軍。二回りほど小柄な僕にとっては、大人と試合をしているような感覚だった。
順調な滑り出しを見せていた僕の野球人生だったが、小4の秋、試練が訪れる。
それは「感情表現」をすることだった。
ある試合、僕はライトを守っていた。この試合でエラーをしてしまった。平凡なライトフライを落球し出塁を許す。いわゆる「エラー」だ。そして、次の打者の打球が僕の左側に飛んできた。僕は必死に追いかけたが、打球には追い付けなかった。結局、その打球は後ろに抜けて行ってしまい、相手に得点を許してしまった。これはエラーではなくヒット。「追いつけなかったんだから、しょうがねぇよなあ」と心の中で思っていると、監督から交代を告げられた。
「え?なんで?さっきのエラーで交代させられるならわかるけど、なぜ今のプレーで交代なんだ?」と呟きながらベンチに戻ると、監督にこう一喝された。「お前にはミスを取り返そうという気持ちはないのか!お前は練習中も試合中も声は出さないし、嬉しそうにも悔しそうにもしない。意欲が感じられない。しばらく1軍の試合では使わない」と言われてしまった。
言うまでもないが、野球はチームスポーツ。チーム一丸となって勝利に向かって進んでいく。そういうスポーツだ。ミスをした見方を励ましたり、時には怒ったり、いい結果が出たときは喜ぶ。感情を表に出し雰囲気を盛り上げることも勝つためには必要だ。高校野球中継を見ていればよくわかるだろう。
しかし、第一章でも書いたように、子供の頃の僕は、人前で発言したり、感情を表に出したりすることがかなり苦手だった。心の中では、勝ちたい、ヒットを打ちたい、と思っていてもそれが表には出てこない。周囲にはそれが、やる気がないとか意欲がないという姿に映っていたのだと思う。
 結局、5年生にあがるまで1軍の試合には出してもらえなかった。5年生になってからは野球の実力でレギュラーに定着することができたのだが、「楠本はやる気がない、意欲がない」という評判が独り歩きするようになり、やがて、担任の先生や親にまでそう言われるようになっていった。
 通知表の「意欲・態度」の項目には必ず△印がつけられ、それを親に見せれば怒られる。それが小学校を卒業するまで続いた。今の小学生にも僕と同じような思いをしている子がいるのではないだろうか。

人より口数が少ない。ただそれだけだった。幼少期とは違い、挨拶ぐらいはちゃんとできていたし、会話だって普通にできていた。しかし、「小学生は騒ぎまわるぐらい元気じゃないとダメだ」という固定観念のようなものを周りから押し付けられ、毎日が辛かった。
正直、小学5・6年の二年間にろくな思い出はない。「やる気がない。意欲がない」と言われながらこの先も生きてくことになるのだろうか。そんな悲壮感と毎日戦っていた。


意外な人からの意外な評価

そんな小学校生活を終えた僕は、地元の公立中学校に入学した。
 野球部の顧問の先生は松下先生。この松下先生は、熱くて怖くて厳しい先生だということを前もって聞いていた。実際に恐る恐る入部してみると、前評判通りの人だった。ミスが出れば全力で怒る。それが練習だろうが試合だろうが関係ない。野球漫画に描かれていそうな人だ。好きな言葉は「根性」という噂も聞いたことがある。本当かどうかはわからないが。
 そんな松下先生だ。口数が少ない僕が気に入られるわけがなかった。「声を出せ」と毎日言われていた。練習中はもちろん、学校の中で顔を合わせたときにまで、本当に毎日毎日言われていた。
 「小学校のときよりも、タチが悪いな」と思っていた。
それでも野球自体は好きだったし楽しかったので続けていた。1年生の秋からはレギュラーにもなれた。
すると、2年生にあがる時期ぐらいにある違和感を覚えた。
「なんか最近、声出せって言われてないな。」
もちろん、それまで無口だった僕が突然活発な人間になるわけがない。僕自身はいつもと変わらないのだ。それなのになぜ?
そんなある日、その真相を母から聞くことになる。
年に一度行われる野球部の保護者会が終わった後、母は松下先生からこんなことを言われたそうだ。「謙くんは、落ち着きがあるというか、いつもひょうひょうとしていていいですね。最初は、声は出さないし、やる気がないのかなと思っていましたが、それは私の勘違いだったようです」
意外な人からの意外な評価だった。
このエピソードを聞いたとき、嬉しくて一気に鳥肌がたったのを今でも覚えている。みんなが短所としか見ていなかった部分を長所として見てくれる人が現れたのだ。嬉しくなるのは当然だ。

 不思議なことに、これ以降、「楠本はやる気がない、意欲がない」と周りから言われることがなくなっていった。目の前が明るくなったような気がして、僕は僕らしくいればいいんだと自信が持てるようになった。
僕が3年生になるとき、松下先生は、他の学校に転任することが決まっていた。最後の練習後、みんながそれぞれ松下先生のところに挨拶に行った。もちろん僕も行った。そこでかけられた言葉は「楠本、ありがとな」だった。僕を初めて理解してくれ、自信をつけるきっかけを与えてくれた松下先生。感謝しなければいけないのは僕の方なのに、ありがとう、という言葉までかけられ、泣きそうになった。
あれから15年が経とうとしている。松下先生との出会いは、今、僕が仕事をするうえで大事な基盤になっている。芸能界を志す人たちが僕のコンサルティングを受けに来るが、短所を指摘することはしないようにしている。短所を消すことは長所を消すことに繋がりかねないからだ。短所が長所に見える方法をクライアントと一緒に考える。それが大事だと思っている。
読者の皆さんも、人の短所を無理やりにでも長所に置き換えて見るということを実践してみて欲しい。今まで嫌いだった人のことを急に好きになるかも知れない。それぐらい見え方が大きく変わってくる。実際、僕はその経験がある。


最初の成功体験

 2005年4月。松下先生との別れを終え、僕は3年生になった。
 3ヶ月後に控えた最後の中総体。ここで優勝することが松下先生への恩返しになる。そう思っていた。
幸いなことに僕の学年は部員が多く、レギュラー9人中7人が3年生というチーム編成だった。3年生全体の部員は20人ほどいたと記憶している。3年生がいない部活だってあった中でこの人数は異常だろう。
ざっと計算すると、3年生の生徒数が約180人。男女が90人ずつだったとすると、3年生の男子生徒の約5人に1人が野球部員だったことになる。

 少し話が逸れるが、スポーツの競技人口は年代や世代によって大きく偏ることがある。近年のパターンを例に挙げると、なでしこジャパンがW杯で優勝したことでサッカーを始める女の子が増えたし、錦織圭選手や大坂なおみ選手の活躍によってテニスを始める子供が増えた。このように、その競技のトップ選手の活躍による流行りが競技人口を大きく左右するのだ。
 ちなみに、僕の学年に野球部が多かったのは、イチロー選手、松井秀喜選手、松坂大輔選手の活躍が大きく影響したと聞いたことがある。

話を元に戻す。
 そういう幸運もあって、良い人材がそろっていた野球部は当然強かった。長崎市内のチームと対戦するときは、ほぼ負け知らずで、中総体の優勝候補筆頭と目されていた。
 優勝が現実的な目標となり、モチベーションは高まり、練習にも身が入った。
そしてもう一つ、僕のモチベーション向上に拍車をかけてくれる人物がいた。
 家庭科の担当教諭だった常盤先生という女性の先生だ。キレイな先生だなと前々から思ってはいたのだが、その常盤先生のことをいつの間にか好きになってしまっている自分がいた。(先に言っておくが、常盤先生は結婚していて、娘さんと息子さんがいる働くママだ。叶うはずのない僕の一方的な片思いだった)
「中総体で活躍して常盤先生に良いところを見せたい」
これが僕の新たなモチベーションになった。田舎の男子中学生らしくて笑えるだろう。
通常の練習が終わってからも、後輩の野球経験があるお父さんにバッティング指導をしてもらうという日々が続いた。野球に最も打ち込んだ時期はいつかと聞かれると、間違いなくこの3ヶ月間だと答えるだろう。この時期は、野球にハマり込んでいるという感覚で、キツイとか辛いと思ったことはなかった。モチベーションというものは恐ろしい。
前評判通り、チームは優勝した。
決勝戦は1対0での勝利だった。この1点は僕のヒットで取った点だった。3ヶ月間の練習の成果が表れた瞬間だった。
この日は全校応援だったので当然、常盤先生も見に来ていた。閉会式が終わり、常盤先生のところに行くと、「かっこよかったよ」と一言かけてくれた。やったぞー。心の中でそう叫んだ。人生で最初の成功体験だった。
「成功体験」人間が成長していく過程で欠かせない要素だと思う。折れかけていた心が一瞬で持ち直し、次へと進むためのモチベーションになってくれる。
一つの成功が、たくさんの失敗を笑い話にしてくれる。
 ダイエットをしている人、受験を控えている学生たち、ドラマで主演を張ろうと頑張っている俳優の卵たち、みんな頑張ろう。成功するために絶対的に必要なこと、それは続けることだ。

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