もともとの栄養だった教養はその跡形もなくなって
note(ノート)の方では、できるだけproactiveなことを書きたいと思っている。
拡散的思考と収束的思考ということが言われるけれども、これは「教養」と「作品」の間にも成立する。
世界のことを広く知るために「教養」を広げることは必要だけれども、最終的に「作品」にするためには「収束」しなければならない。
その際には、教養の注釈はむしろいらない。
この世に生まれたばかりのようなつるんとした姿をしているけれども、しかし本当は隠れて教養のインデックスがついているのである。
しかし、教養は隠し味になっている。脳の中で、経験が定着される際にすべては消化され、有機的に再組織化されて、もともとの栄養だった教養はその跡形もなくなっている。
しかし、教養という栄養がなければ、そもそも作品はできない。
とりあえずこうやってメモしておきます。
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