時計

解けゆく社会での「問と答」「物語と時間」「主体と客体」について

<1>問と答  
<2>物語と時間の流れ
<3>主体と客体

認知とは面白いもので、私たちは、通常、「正解を探し」「現在は過去の結果と受け止め」「主体と客体に世界を分離」します。しかし、これらが全て、間違っていると言われるとどう考えますか?今日は、そうしたあべこべの世界を探検します。

<1>学問と解答  

「問い」と「答え」はどちらが重要か。学校生活においては、先生から正しい問題が出てきて、その正解を追い求める形の学びを繰り返しました。「解答」ですね。しかし、社会においては、明確な問いとは難しいものです。誰もあなたの人生にとって一番大事な問いを教えてはくれません。もちろん答えも。当然正解もありません。

何もかもが変化する、社会も自分も周りの人も変化し続ける社会の中で、私たちが一貫した力を発揮していくには自ら問いを設定し、環境変化の中で問いを修正しながら答えを導く力こそ、潜在的な力を発揮するに必要な力です。これが、まさに「学問」です。生涯学び続けるのは、正しい問いを持つためですね。揺れ動く社会の中で、ここは動かない、ここが芯であるという自分なりの立ち位置を見つけだし、そこから見える問いを設定し、内側から出る力の照準を合わせていくことで人生を積み上げる。そういう力が必要となります。

この問いを立てる力は、社会課題を解決していくリーダーに必須の力です。BigQを見つける力。好奇心が重要と言われる所以もここにあります。好奇心とは、探究心、つまり問いを立てる力です。次々と生まれる好奇心のままに探検しながら人生を楽しめる人もいますが、一つのことを深掘りするには、そのテーマを見つけるための視座が必要です。自分とは何か、命をどのように使うか。大変革の時代。解けゆく社会。これまでの前提が崩れる中、人はさまよいます。問題を定義する力は、これから益々大事になります。

<2>物語と時間の流れ

私たちの脳は、バラバラな感覚器官からえた知覚を統合するために、物語を作ります。知覚記憶を1枚のスナップショットに統合し、それを時系列に並べて、それを物語として把握し、ネットワークの中で記憶する力があります。こうしたことによって、自己同一性を担保します。また、私たちは時間そのものを把握できませんが、記憶の中に時間を認識するので、空間的表現で時間を表します。(時間が長い。遠い未来)

私たちは、現在の把握はできます。過去も記憶の中に見れます。しかし未来を予測できません。すなわち次の瞬間に何が起こるかわかりません。確率論から類推できても、実際に何が起こるかわかりません。一方で、過去から現在を見たときは、強い因果関係があるととらえますが、同じことを未来に適用しろと言われると、少し不安になります。これが、物語の中から因果関係を見出す力です。また、起きたことは常識に反しても理由づけをして受け入れたり、「酸っぱいブドウ」の例(狐が、手の届かないブドウを酸っぱいブドウと思いこむ)のように、現在を肯定するように認知バイアスをかけるような物語を作る力もあります。しかし、未来を作り上げる力は、まだ獲得形質として定着していないようです。

AゆえにB、BゆえにCというのは、すべて後付けでスナップショットに物語を作ったにすぎず、認知可能領域の情報から脳は物語を生み出します。つまり、私たちは起きたことに対して整合性がつく物語(因果関係)を自ら作るのです。スナップショットを並べ替え、そちらを正だとすると、脳はまた異なる物語を作るでしょう。

この物語を構築する力を利用することで、私たち自身が未来を作っていく力を現在に強く引き出すこともできます。潜在意識は、現実と仮想現実(想像)の区別がつかないと言われます。(レモンを想像すると、唾液が出る)何もかもが現在にしかないのならば、「過去の延長に今日を生きる」のではなく、「未来へ続く道として今日を生きる」ことで、同じ「今」を異なって体験する力を持つことができます。潜在意識が想像と現実を区別しないなら、このような見方は、潜在意識の力を引き出しますし、同じ「今」の味わい方も大きく異なってきます。まさに、「今」を「出現しつつある未来」として生きる力です。

<3>主体と客体
見る:能動態
見られる:受動態

などは英語の授業などで習ったことがあるかと思いますが、中動態という言葉はご存知でしょうか。日本語では、自然にいくつかありますね。サンスクリット語やギリシア語にもあるようです。「する」でも「される」でもない考え方。「見る」「見られる」に対して「見える」のようなものですね。このような言語が成立するには、そこに主体も客体も溶け込んだ場がなければなりません。陰陽のように、どちらが欠けても成立しないのです。

この世界を捉えようとした際、すべてが相対であり、何もかもが変化し続けることを思うとき、言語体系においても、何もかもを主体と客体に分けるのではなく、両極があり両極からの働きかけにより初めて成立する世界。この世界観を認識することも極めて大事なことかと思います。そして、私たち日本人は、主体と客体を峻別しない精神を色濃く残しています。

・大きな問いの視座を持つこと

・未来へ続く物語の起点として今を見ること

・主体も客体もない、何もかも混じり合った一つの存在として世界を認識すること

これらは、私たちがどこに立つか、すなわち私とは何者かという問いそのものになってきます。いずれも、社会を認識する上で、無視できない問題であり、近代(自由・資本主義と民主主義)の相克を超え、Human-Centricな社会を目指すに必要な視点と思います。


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