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コト消費経済の意味と時期

〜歴史における現代の位置付け〜

心を開発する時代

モノ消費の時代からコト消費の時代というのは、マーケティングの世界で20年以上前から言われております。モノが簡単に売れなくなったので出てきた言葉だと思いますが、供給サイドはあまり変化していません。そのことについて少し説明したいと思います。おそらく、モノからコトと時代が進むには、その先に目的地があります。それはすなわち心です。

図をご覧ください。コトとは、冷静に考えると、モノと心の間に起きる現象です。図をみてわかるように、コト消費の時代というのは、心を開発する時代へ向かっているから起こるのです。ということは少なくとも供給者サイドの心が開発されていなければ、本当のコトは生み出せません。企業というシステムが、働く人の心を尊重しないなら働く人の心は開発されません。そのような状態で「コト消費」と経営者がいくら先導しても、モノ開発の心ではコトは生み出せません。それが、コト消費市場がまだ想定されるほど拡大していない理由と考えます。(商業施設のフロアで見ると変化も見られますが、もっと拡大していくでしょう)

第2次大戦後、経済の時代が80年弱続いています。敗戦後、儒教的世界観と江戸時代、明治と連なる日本的美意識(武士道、朱子学、儒教、禅などなど)を社会の安定装置としながら、早々に経済に向かった日本。目標は追いつけ追い越せ。欧米追随モデルを経済に転換することで、1985年までは、大いに成長しました。しかし、その後は、バブルを経て、失われた30年と言われています。デジタルトランスフォーメーションの流れで、プラットフォームをとる戦略では置いていかれ、世界経済は資源と米中のデジタル企業を中心に発展。現代は、その次はどうなるかということをにらみながら、次を考える時代です。

福岡伸一さんが動的平衡のコンセプトで言っている通り生命とは「解けつつ、結びつつあるモノ」「生成しつつ滅するもの」です。社会も同様に古い世界が解け、新しい世界が生成しつつある現在。次の時代を洞察しつつ、自らのポジショニングを考えるべき時期にきていることは間違い無いでしょう。それは、ローレンストープのいうように、新たな精神の時代の幕開けでしょうか。みなさんはどのように考えますか?

おそらく、新しく精神・思想・宗教の時代がきたとしても、それは従来の宗教とは大きく異なるものでしょう。先に述べたようにかっての宗教は、その時代の政治体制と密接に結びついたものでした。これから生まれる、思想・宗教は、現代社会の前提となっている哲学(自由主義、民主主義、私有財産制)を後退するものではなく、人間の自由を求める魂におけるその本質を言語化し、さらに社会的幸福を推し進めたものとなるでしょう。

すなわち、霊的な結びつきをもつにあたり、エージェント(教祖)を必要としないものとなると考えます。それは、個人的でありながらも世界観を共有する一定のコミュニティのようなものと言えるかもしれません。それらが個人の幸福度に寄与する要因がもっとも高いから(人生において、時間とお金を投下した上での効用が高い)かもしれません、それは新しい時代の社会を繫ぎ止める紐帯となるでしょう。一時的に、経済の時代からの転換として暴力的な何かがあったとしても、具体性を伴ったものとなる確率は小さいでしょう(また、そうあることを望みます。)

そして、このそれぞれの世界観に基づき、新たな経済活動が行われていく。ここに、本当のコト消費時代がくるのだと思います。これは、自然エネルギーの進化による限界費用ゼロ社会、AI、ロボティクスの発展、などを鑑みるとより一層明確にイメージができるかもしれません。これらにより、高度に効率化が進んだ社会で、合理性を超えて人が求めるのは、本当の繋がり、愛、喜び、感動、こういった物をもたらす体験(コト)になるでしょう。社会変化が加速する中、2025年ごろには、その姿がはっきりと現れているやもしれません。


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