「はじめに」を公開します。


以下は、4月13日発売の『からだの錯覚 脳と感覚が作り出す不思議な世界』の冒頭「はじめに」です。講談社の許可を得て、転載しています。

 本書は、からだの錯覚を扱う本です。よくある錯覚本かというと、おそらくはそのようにはなっていません。

 錯覚というと、視覚の錯覚を想像する人が多いのではないでしょうか。実際、検索サイトで「錯覚」という語を入力すると、「動いていないのに動いているようにみえる」「同じ長さなのに、長さが違うようにみえる」といった類の画像が大量に出力されます。こうした錯覚は、SNSの登場により、一段と馴染み深いものとなりました。ところが、本書で扱うからだの錯覚は、SNSを通して体験を直に共有できるようなものではありません。文字通り、当人の身体を動員する必要があるからです。

 はじめに断っておきたいこととして、本書のタイトルでもある「からだ﹅﹅﹅の錯覚」という表記は、筆者自身の趣向によるものです。意味的には、「体の錯覚」であっても「身体の錯覚」であっても構いません。ただし、筆者が、(本書にとりかかるずっと以前から)この平仮名による用法にこだわってきたことには、それなりの所以があります。複数の部首で構成される個々の漢字は、何らかの抽象的な意味を担っている一方で、平仮名は、その歴史的経緯からして、漢字から意味をはぎ取り、純粋に音だけを表すものとして運用されてきました。逆に言うと、平仮名の場合、同一の語が、潜在的に異なる意味解釈に対して開かれているということでもあります。
 本書で扱おうとする「からだ」もまた同様に、さまざまなイメージに対して開かれています。物理的な身体であれば、ちょっとやそっとではその姿形を変えることは叶いませんが、頭の中にある「からだ」であれば、わずかな工夫で、皮膚を石のようにカチコチに硬くしてみせたり(第1章:マーブルハンド錯覚)、逆に1m程引き伸ばしてみたり(第5章:スライムハンド錯覚)、目の前の人と自分の手を入れ替えたり(第2章:セルフタッチ錯覚)、あるいは通常の何倍もの長さに腕を伸ばしてみたり(第3章:VRによる腕伸び錯覚)、ペンと自分の指をつなげてしまうこと(第3章:薬指のクーデター)まで可能となります。
 これとは逆の方向として、物理的な身体から日常的に付与されている意味をはぎ取って、モノとしてのからだを体験することも可能です(第5章:蟹の錯覚、ボディジェクトの指)。これを全身に対して引き起こすことができれば、一種の幽体離脱の体験に近づきます(第6章)。
 要するに平仮名としての「からだ」とは、普段、主に物理的な制約に従って、特定の解釈を強いられてきた身体が、錯覚の介入によって、さまざまな解釈を往復できるだけのやわらかさを獲得しうること、そのことを象徴的に示すための表現なのです。

 筆者が、からだの錯覚と出会ったのは、2012年にまで遡ります。それから10年もの間、からだの錯覚に魅せられて、ついには本を出版するまでに至ったのは、ひとえに、からだの錯覚が醸している異様なまでに不気味な誘引力﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅によるものです。からだの錯覚は、筆者がそれまでに経験していた、視覚や触覚、聴覚といった単一のモダリティー(視覚・聴覚・触覚・味覚などそれぞれの感覚)による錯覚とは、明らかに質的に異なるものだったのです。
 例えば、本書の後半でも詳しく扱うように、ある種のからだの錯覚には、乗り物酔いとは異なる「きもちわるさ」が付帯します。この「きもちわるさ」とは、からだの錯覚が、単に身体のイメージを錯覚させるだけでなく、同時に「自分」のイメージをも錯覚させていることと深く関係しています。異様なまでに不気味な誘引力﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅の正体とは、錯覚がこの自分を跡形もなく変えてしまいかねない﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅、ある種の呪術的な作用にこそ見出されるのです。つまり、からだの錯覚とは、「自分」の錯覚でもあったのです。

 このように、ときに「自分」の現実に介入しようとするからだの錯覚が、インターネット空間の中で容易に流通しえないのは、ある意味では当然といえます。筆者の研究室が、毎年、各所で錯覚の展示会を開催しているのは、物理的に身体を動員させることなしに、からだの錯覚の体感を享受することなど不可能であることを深く理解しているからです。
 このような手続きの煩雑さゆえに、からだの錯覚は、その絶大なる威力にもかかわらず、錯覚の世界の中で永らく(そして現在も)日陰の存在に甘んじています。こうした状況に対するささやかな抵抗として、本書では、巻頭および各章で、特別な道具や装置がなくても、すぐに体感することのできる、小鷹研究室オリジナルの即席錯覚(=即錯そくさく)を多数紹介しています。即錯の多くは、2人で行う場合が多いですが、本書の内容を読みすすめるのと並行して、家族や友達を誘って、ぜひ気になった即錯を試してみてください。一定の割合で、筆者と同様に錯覚に深く魅せられてしまう読者が出てくることでしょう。

 本書の第1章では、実験心理学の中で扱われる「からだ」の基本的な概念に対する理解を、無理のないさまざまな思考実験を通して深めていきます。特に注目するのが、ある物質が「からだ」へと昇格するための空間的な条件です。例えば、地面に映る自分の身体の影は、なぜ「からだ」と感じられないのでしょうか。「からだ」に関わる空間的な条件を理解すれば、この疑問に答えるだけでなく、影を「からだ」へと昇格させるための方策もみえてきます。
 第2章では、実際には他人の手を触っているのにもかかわらず自分の手を触っているように感じられる「セルフタッチ錯覚」を取り上げます。目を閉じて行う「セルフタッチ錯覚」に固有の事情として、体験者によって錯覚像がまるで異なるということがあります。そうした事例を詳しく追うことで、「からだ」が宿している、内的な解釈の多様性に触れることが、この章の隠れたテーマとなっています。
続いて第3章では、指や手足が伸びる錯覚を主に取り上げます。ここでも、重要な裏テーマがあります。それは、なぜある種の身体変形は即座に錯覚できる一方で、別の身体変形ではうまくいかないのか、この非対称性の問題を考えることです。ここでは、「からだの水脈」という語が重要なキーワードとなることを予告しておきます。
 第4章では、錯覚と思い込みの何が異なるのかについて、短い分量ではありますが丁寧に解説していきます。脳科学的な説明に関心のある方は、ぜひこの章に注目してみてください。
 第5章以降、錯覚がより「自分」に介入していく側面に注目していきます。まず第5章では、錯覚体験の「きもちわるさ」の由来について検討しつつ、これまでの章で取り上げた錯覚とは逆に、自分の身体の手足のイメージがモノ化していくタイプの即錯を紹介します。
 最後の第6章は、全身のモノ化として、幽体離脱現象を扱います。幽体離脱というと、いかがわしい疑似科学の典型ではないかと考えている人が多いかもしれませんが、21世紀以降、幽体離脱を科学的に扱おうとする研究成果が多数出ています。幽体離脱を適切に科学することによって、近未来のメタバースの設計のあるべき姿がみえてくるかもしれません。

 本書では、小鷹研究室オリジナルの錯覚がじつに大量に登場します。それらの錯覚誘導がどのようなかたちで行われているかについては、各種の映像を見てもらえれば一目瞭然です。各章の扉にQRコードが掲載されているので、各章に入るたびに、対応する映像の紹介ページへとアクセスし、気になる錯覚の映像を、その都度ご覧いただくことをおすすめします。

 それでは前置きはここまでとしましょう。異様なまでに不気味な誘引力﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅を持つ世界に飛び込む準備はよろしいでしょうか。

 ようこそ、からだの錯覚の世界へ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?