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料理にはスポーツに似た楽しさがある

最近、ますます料理が楽しくなってきている。
料理をあまりしていなかった時の記憶が残っているうちに、料理を好きになっていった過程を整理してみたいと思う。

料理が好きになる以前の話

自炊をするようになったのは、ようやく一人暮らしをはじめた30歳くらいの頃。はじめの頃は張り切って料理本を買ったりクックパッドの有料会員になって、毎日ちがうメニューを作っていたのを覚えている。

だけど、しばらくすると出版社での仕事が忙しくなったり、食材を余らせてしまったりで料理をすることはなくなってしまった。夜ご飯はおもにスーパーのお惣菜だったり、弁当屋で買った弁当だったり。結局、そのほうが自分で作るより安くついたのもある。

この頃は、料理をしていても一向に上達してる感じがしなかった。それなりにおいしく作れはするのだけど、レシピをひたすら忠実になぞる感じ。それでもいいのだけど、面白さはなかった。なんというか、学校で意味も分からず公式を覚えさせられる感じだった。

料理が楽しくなっていった

転機は転職だった。

2018年の3月にいまの職場であるピースオブケイクに転職してnoteの姉妹サイトcakesの編集を担当するようになった。
その際に前任者の中島洋一さんからいくつかの連載を引き継いだが、そのひとつが有賀薫さんのスープ・レッスンだった。

スープ・レッスンでつくるのは究極のシンプルスープ。ギリギリまで工程や材料を省いていて、「こんな材料も必要なの?」とか「工程が多くて面倒」などの料理のハードルをできるだけ取り除くように設計されている。中島さんから「公開する前に一度は作ったほうがいいよ」と聞いていたので、有賀さんに原稿をいただいてから公開前に試作するようにしていた。

担当しはじめて2回目につくったのがこのキャベツ4分の1個をまるごと使ったスープ。料理から遠ざけていたもののひとつが食材を余らせてしまうことだったが、有賀さんのレシピはそれを解決するものだった。しかも、不足気味だった野菜、食物繊維などをたっぷりとることができる。

レシピ自体もキャベツを半分に切って焼いたあとに水を加えて煮込むだけ。むずかしい調理をしなくても、旬のおいしい野菜にほんのひと手間かけるだけで、おいしい料理ができあがることを知れた。想像以上においしいものを自らの手で作りだすことができて感激する、というのも料理を好きになった要因だったかと思う。

やっていることを理解して作ると楽しくなる

それからしばらく経って、今度はnoteで科学的なレシピをあげている樋口直哉さんの連載を担当させていただくことになった。

料理の基本を科学的見地からロジカルに解説していく内容で、初心者のぼくはこれで料理の構造がずいぶんと見えるようになってきたと思う。旨味には相乗効果があって、植物由来のグルタミン酸、お肉由来のイノシン酸、きのこ由来のグアニル酸が混ざり合うことでよりおいしくなることや、焼く料理で香ばしさを出すには高温でメイラード反応を起こして焦げ目を作る必要があることなど。

このような料理における基本法則のようなものを知れたことで、単にレシピをなぞるというレシピの奴隷から解放されてきた。お肉を焼く時、煮る時、野菜をゆでる時、それぞれで工程の意味をかんがえながら調理できるようになりつつある。ここでは、メイラード反応による香ばしさを出すためにフライパンを高温にしてからすばやく加熱する必要があるなとか、レンジ調理する場合は蒸らす時間をとったほうがよいなとか、考えながら料理すると自分で作っている感が増して料理がたのしくなってきた。

最近よく思うのは、肉は何℃から硬くなりはじめるといった素材の特性と、肉の内部にどれくらい火を通し表面はどういう状態にするのかといった仕上がりさえイメージできていれば、その間の工程はあるていど考えて作れる、ということだ。ひとつの料理に「これが正解」というのはなくて、いろんなやり方があるのだろう。

料理のたのしさはスポーツに似ている

いまは料理をしている時は、絵を描いたり、スポーツをしている時に近い感覚がある。どうしたらおいしくなるかを考えて作る。こうやったらもっとうまくなるんじゃないかとか、うまくいかなかったら、どこがまずかったのかを省みる。ああ、ここはこういう風に作るとうまくいくのか、と経験をかさねるたびにステップアップしていく感覚がある。

以前は、うまくいかなくても、どこをどうしたらよいのか分からなかった。目の前で何が起こっているのか、わけも分からず料理してた。そして、手間暇かけて作って失敗したときの落胆は大きかった。失敗の原因がわからないのだからなおさらだ。ただ時間とお金を無駄にした感が強かった。

ところで、料理が楽しくなったからといって毎日、料理しているわけではない。これは、かならずしも料理しなくてもよいという自分の境遇にも助けられている。やはり疲れていても料理しなければならない、という状態であればしんどいしつらい。有賀さんもよく仰るけど、「料理をしなければならない」「料理しないのは悪いことだ」という思いを取り去ることはとても大切だと思う。やらなくちゃいけないと思うと嫌いになってしまう。別に買ってきて食べたっていい。自分で納得できる、満足できる食の選択ができればそれでいい。

余談だが、ぼくは以前から山菜採りやきのこ狩りに行くことがあって、そういった野山で食材を採取するたのしさや、それを料理するたのしさは、なんだか人間の根源的、生得的なもののような気がしている。考えてみれば、狩猟採集時代には日々の食料は生死に関わる大きな問題で、野山でおいしい食材に巡り会えたときにの喜びはひとしおだったはずで、それを皆で料理して収穫を祝うのもたのしい営みだったのではないだろうか。料理は、とくべつなお金も不要で、すごくシンプルに幸せを感じられる行為なような気がいまはしている。



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