Shoud (Not) To Be?
友達は「人が死んだ時に悲しいって言う気持ちがわからなくて、もちろん理性としてそう言う気持ちがあるって言うことは受け止めてるけれど、実感としてわからないの」
と言っていて、
一方で、わたしは脳(精神)を病んで一年以上、心筋梗塞で死にかけて、手術は成功したけれど心臓は元に戻らない
狭心症も持続中
喘息も再発して、総合病院で喘息のつもりで診てもらったら併発して謎の肺病(謎というのは未知、じゃなくて検査が終わらないとわからない、という意味)まであって、CTで見たら心臓よりもずっと大きな何かが肺の中に根を張るように存在していて、本当に自分の体にこんなものが入っているのかと思った(新手のスタンド使いとかじゃないの?ともちょっと思った)
頻発する咳に、呼吸も十分には出来なくて、足りない酸素を補えるだけの心臓でもなくて、継続する肉体の痛みは良くなっていたはずの精神を容易く折る
「もう良くない?」
「だってこれがプラモデルだったら、頭も心臓も肺はダブルで壊れてたら、そんなの捨てて新しく作り直すでしょ?」
だったら、元通りになるわけでもない、何年もかかることをせっせとやり続ける必要なんてなくない?」
と、言った時のこと、その言葉を遮るように、友達は意外に思うくらいには大きな声で「自死はだめでしょ!」と切実な声を出す。
「あれ、てっきり『いつもみたいに『あんた他の人生なんだから好きにしたら?』って言うと思ったら、自死には反対なんだ?」
「当たり前でしょ!」
でも「親しい人が死んだ時悲しいかどうか」わかるかもしれないよ?
「それとこれとは別!」
「結構強硬な反対だ…カソリックじゃないよね?」
「は?」
-カソリックの自死についてのお話は省略-
「そんなことじゃなくて!」
「あんたが死んだらわたしは誰にLightroomとかのこととかきけばいいのよ!」
と言う、ある日の、会話
命の話をしててもオチはつく(それがこの友達のいいところだ笑)
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