雪片の記憶
わたしは会いたい人にしか会いたくないし、欲しいものしか欲しくない。
「あなたはさー、そういう白痴美?みたいなの好きだよね。こう、感情の起伏が少なくて何考えてるかわからないっていうか、儚い感じっていうかさ。今にも消えちゃいそうな感じ」
先日、友人にそう言われた。確かにそうだな、と思う。
私にとって親しみがあるのは静かな言葉と悲しみと寂しさで、激しい感情表現は苦手だ。
私は中学生までの頃、ロックとかPOPとか、そういう音楽を聴くことができなかった。
そういった音楽は大抵の場合、ボーカルの他はギターがメインで、ギターという楽器はエレキでもアコースティックでも、私にとっては感情的過ぎだった(多分、ギターという楽器は肘から先が動くから、身体の動きが大きく、感情を乗せやすいのかもしれない)。
当時はわからなかったけれど、私はそれが怖かったのかもしれない。
その内に、エレクトロミュージックに出会い、音楽を聞くことが楽しいと思う様になった。
シンセサイザーの電子音は、私にとって心地良い。
ただのビープ音に意図して揺らぎを与えて、感情ではなくて意思と機材の関係で音を奏でるシンセサイザーの音とそれを使った音楽は、私にとって落ち着くものだったし、機能を増やし、様々な数値を操作してそこに必死に感情を乗せようとしているところも、親近感に近い愛しさを感じる。
もともとはすべての音を合成できる装置として考案された(すべての音はサイン波の合成物として分解できるのだ)そうだけれど、私の知る限り、その装置は結局楽器として受け入れられていった(それをリアルタイムで経験した訳ではないけれど)。
その後サンプリング主体の音楽に出会っていくにつれ、私の聴ける音の幅も広くなって行った。
人の感情も、電子的な制御の下に入ると抑えられ、優しくなる気がする。
多分、音楽制作に際して電子的な調整が当たり前になったおかげで、今では聴ける音楽がたくさんある。
私は21世紀を生きられてよかったな、と思う。
話は変わって、先日恋人に「お願いだから黙って居なくなったりしないでね」と真剣な調子で言われて、何故そんな心配をするのかな、と少し不思議だったけれど、思えば過去にもそう言った事を言われたことがあったし、友人知人にも「あなたは突然こう、ふらっと居なくなっちゃいそうな感じがあるよね」と言われたことがあった。
それはちょっと不思議な感じがする。
私の希死念慮を薄めたような厭世観がそう感じさせるのかな、という気はするけれど、特に失踪する予定はないな、と思う。
でも思えば、実家を出た時も、特に何も言わずに夜にふらっと出てそれっきり戻って居ないし、家族と断絶したときも特に何か強い宣言をした訳ではないな、と思う。
もしかしたら人にそう思わせるのは、幼少期からの体験で、私の意識の根底には「縁が"切れる"ことよりも"切れない"ことの方がよほど質が悪い」という思いがあるからかもしれない(そしてそれは真実だと、今でも思っている)。
私は会いたい人にしか会いたくないし、欲しいものしか欲しくない。
それが望まれたものであるかどうかはわからないけれど、私は私の思う誠実さで恋人にも友人にも接するよ。
それが雪片の様に弱い存在でも、意思をもって繋ぎ止めておきたいと思っていることは、強い「絆」よりも、人を幸福にするように思っている。
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