社会のゆとりと隙間

“ゆとり世代”ど真ん中だ。

“ゆとり”というと、もっぱらゆとり教育を受けた、80年代後半から90年代前半に生まれた世代のことを揶揄する言葉の如くなっている。

「なにお前、ゆとり世代?」「そうっすよ」

そんな会話が聞こえてきそうである。

しかし、ゆとりとは本来、「余裕のあること。窮屈でないこと。」の意を持つことは、言うまでもない。

今、社会にゆとりはあるか。

* * *

作家の沢木耕太郎のエッセイ集(路上の視野)に、なぜ彼がノンフィクションライターになったのかという経緯を、「ささやかな発端」というタイトルで記しているものがある。

1970年に大学を卒業した沢木は、当時、就職先はすでに決まっていた。しかし、どうしても就職するべきでないという思いが強く、1日だけ出社してその日に退社した。就職しないと決めたものの、自分が何をやりたいのかわからないままに、家庭教師のバイトをしながら金を稼いでいたという。

そんなある日、彼は大学時代に所属していたゼミの先生に、なんとはなしに会いに行く。

相談に行くというほどの心構えがあったわけではないが、初夏のある日、ゼミナールの担当教官だったN教授の研究室を訪ねた。          「何をして喰っているんだ」                     まずN教授が心配してくれたのはそのことだった。家庭教師をして辛うじてなにがしかの金を得ていた。卒業と同時にやめようとしたのだが、就職しないと知ると、「自分のやりたいことが決まるまで、話相手としてでいいからつづけて来てほしい」と頼まれた。願ってもないことだった。      「でも、これからどうするつもりだ」                 一年浪人して大学院にでも行こうと思います。そう答えると、N教授は首を振った。                              「君は大学院としての生活には向いていない」             それはうすうす自分でも気づいていないわけではなかった。しかし、それではどうしたらいいのだろう。すると、N教授はぼくの心の中の問いに答えるようにいった。                           「もっと自由な世界が、君には向いているだろう」           この時の、このN教授の言葉は、ぼくにとってひとつの啓示のように響いた。自由な世界というものが具体的にどのようなものを指すのかわからなかったが、この言葉は深く心に残った。そして、N教授はふとこういったのだ。                                「何か書いてみないか」                       N教授の話によれば、いまさまざまな雑誌の編集者たちは若くして新しい書き手を強く求めている、自分のところにも誰かいないものかと相談に来る、そのひとつに紹介してあげようというのだ。              「君はどんなものが書けるかな」                   N教授が念頭に置いていたのは、たぶんぼくの卒業論文だったろうと思う。それまで学内の雑誌や新聞にすら文章を書いたことのないぼくに、外部の雑誌社を紹介してくれようというのには、それ以外に理由が考えつかない。経済学部の論文だというのに、「アルベール・カミュの世界」などという文芸評論まがいのものでぼくは卒業したのだが、N教授はなかばサジを投げていたこともあって、経済学部の卒論としてではなく、一篇の評論としてかなり面白がってくれていた。

沢木はこの時、偶然に知ったルポライターという職業を思い出し、それなら自由に生きていけるかもという安易な発想で、「ルポルタージュなら書けそうです」とN教授に伝えたことで、後日、総合雑誌の編集長であるS氏に会うことになった。

S氏にしても、大学を出たばかりの二十二歳の若僧に何が書けるとは思っていなかったはずだ。N教授の顔をつぶさないためにも仕方なく会おうとしたのだろう。いまになってそれが理解できる。S氏はぼくの能力についてほとんど期待していなかった。S氏はその気配を決して表さなかったが、そうだとしても無理ない話だ。しかし、一度顔を合わせただけだったが、二度目に呼び出された時、S氏は意外にも仕事の具体的な話を切り出してきた。 (中略)                              締切は二ヶ月後だった。S氏はできてもよしできなくてもよしという心づもりだったらしい。失敗しても構わない、目次にひびかぬ原稿だった。もちろん、そんなこと当時のぼくにはわからない。              (中略)                              二ヶ月後、とにかく五十枚のルポルタージュが書き上がった。持っていくと、S氏は面白いじゃないですかといって意外そうな顔をした。誌面の都合で四十八枚に削られはしたが、それは秋の別冊号に掲載され、当時のぼくにしては破格の原稿料を受け取った。

これが沢木耕太郎のライターとしての始まりだった。

* * *

私はこのエッセイを読んだ時、余裕というものを感じた。

それは一つには、大学を卒業したばかりの若者に、失敗しても構わないからと、仕事を任せられる度量のことだ。もちろん、雑誌全盛期の70年代という時代だからこそ、こうしたことが可能だったのかもしれない。さらに言えば、沢木も言及しているように、卒論で書いた「アルベール・カミュの世界」を読んだN教授がそこに何かしらの才を見出していたからこそ、こうした例外が生まれたのかもしれない。

しかし、だ。それにしても余裕を感じるのだ。それは例えば、経済学部であるにも関わらず、文芸批評まがいの一篇のエッセイを卒論として提出した沢木を否定することなく、それはそれとして面白いと認めるN教授の姿勢。そして何よりも、沢木自身の就職しないという決断を尊重していることだろう。

この余裕とは、別の言葉で言い換えれば、いい意味で適当といえるかもしれない。それは、こうしなければならない、こうあるべきという窮屈なものからは程遠い、寛容さや寛大さを表している。

* * *

ある女性の言葉を思い出した。

「隙間を作るため。社会の隙間を増やしていきたい。そんな感覚」

その女性は、自身が当事者だった経験から、今現在、ひきこもり当事者の居場所作りなどの支援活動をしている方だった。

彼女は、躾に厳しい母親に育てられた。ああしなさい、こうしなさいと、母親の意のままに従って生きてきた。さらに、高校に進むと、管理教育で高校1年生の段階から大学受験を意識させらたことも、彼女を精神的に追い詰めた。そうしたことが積み重なって、20代の頃にひきこもりになったという。

「今の時代、こうすべきとか、こうしないといけないというような、圧がたくさんある。そうした空気に応えようと必死に頑張っている人ほど、精神のバランスを崩したり、体調を悪くしてしまう。とても生きづらい社会」だと、彼女は言っていた。

「隙間を作るため。社会の隙間を増やしていきたい。そんな感覚」

どうしてこの活動をやるのかという問いに対して、彼女はそう言葉を紡いだ。

私は、その感覚が理解できた。

* * *

社会のゆとりとは、いい具合に“隙間”がある状態のことを言うのかもしれない。

そうした隙間があったからこそ、N教授と沢木耕太郎の物語も生まれたのかもしれない。
















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