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映像の力ってなんだ

よく、映像の力あるいは活字の力といったことが言われるが、結局のところ個人の好みに帰結するのではと思っている。私はもっぱら活字に魅力を感じているが、映像と比べてどうこうということではなく、単に好みの問題という範疇を出ない。

ところで、映像の力とはなんだろうと思う。というのも、スマホが普及したことによって、これまで以上に私たちがYoutubeなどにおいて動画を観る時間が圧倒的に増えているからだ。確かに、それは映像の力とも言えなくはない。文章を読むという作業に比べれば、見るということだけで、何が起きているかがわかる。そのわかりやすさが映像に多くの人を引きつけていると言うことはできる。

しかし、私が映像作品を見ていて心奪われるのは、一瞬捉えた表情や、ストーリーの本筋とは直接関係ないような、何気ない仕草や行動だったりする。そこには、わかりやすさとは裏腹に、ある一定のわかりにくさが存在する。

ドキュメンタリーの王道として、「ゆきゆきて、神軍」という作品がある。原一男監督によって撮影されたこの一本のドキュメンタリー映画は、1987年に公開されると、異例の26週間のロングランを記録し、渋谷のユーロスペースに5万3千人を動員したと言われている。映画は、1969年に天皇に向かってパチンコ玉を打ち込むという事件を起こした、奥崎謙三という一人の男性の姿を描く。戦時中、奥崎はニューギニアに派遣され、ほとんどの連隊の仲間が餓死や戦死を遂げる中で、自らも九死に一生の体験をする。その際、生き残った残留隊の間で、隊長による部下の射殺事件があったことを知る。映画は、その真相を明らかにするために、奥崎が、当時その現場に居合わせた生き残りの兵士たちを訪ね歩くことで展開していく。

印象的なシーンはいくつもある。奥崎が生き残りの元兵士たちを訪ねるとき、どの人たちも心に封印していたことを揺さぶられ、カメラは彼らのなんとも言いようようのない雰囲気や表情を捉える。あれは、演技しようと思ってもできない、戦争を体験した人でなければわからない心情によるものではないかと思う。何よりも、会いに行った人のほとんどが、名字を変えて新しい姓を名乗っていることが、そのことを物語っている。あの映像だけで、戦争というものを感じさせられてしまう。

しかし、ここであえて私が言及したいのは、奥崎が訪ね歩く元兵士たちの妻についてだ。突然やってきて、恐らく自分の知らない夫の過去について聞き出そうとする奥崎に対して、元兵士の妻たちは、様々な反応を示す。その様子が訪ね先の端々で撮影されている。

射殺現場に居合わせた元軍曹だった男の妻は、1回目に会いに行った際には丁寧に挨拶をした。しかし、当時現場で何があったかがぼんやりとわかり再び会いに行くと、撮影の横でなにやらブツブツと文句を言っている声が入っている。見兼ねた奥崎が「奥さんご勘弁ください」とカメラの後ろにいるであろう女性に対して声をかけると、泣き声で「そんな話聞きたくないんです私は!」と叫ぶ。

元伍長だった男の妻は、夫が当時の射殺現場の話をしている最中、少し離れた台所の椅子に静かに座り、話をしている奥崎たちの様子をじっと見つめている。そして、再びカメラが妻を捉えると、窓の方を向いてどこか上の空な様子が映し出される。しかし同時に、片方の手でもう一方の手をしきりにむしりながら、体を揺する姿があった。

そして、部下の射殺を命令した元隊長に会いに行くと、そこで思いもよらぬ妻の行動が撮られている。奥崎は当時の記憶から、隊長がいかに下級兵に対して横暴だったか、そして部下は現地人の人肉を食らったから処刑したというような話をしている横で、妻はコーヒーを用意する。そして、話をしている奥崎たちを写す先に、突如として妻が現れ、何を思ったかその風景をカメラで激写する。シリアスな話をしているところに、カメラを構える妻の姿、そしてフラッシュとジーという音がしっかりと記録され、とてもシュールな場面になっている。物珍しいということで記念にカメラに収めたのかもしれない。しかし、その行動のあり方が他の元兵士の妻との対比において、あまりにも浮いていたために、このシーンは鮮明に印象に残った。

この違いはなんだろうと思う。行く先々で捉えられる妻の姿からは、自分の知らない戦争時代の夫の姿を知りたくないという気持ちや、一方でそんなことがあったという事実への複雑な気持ちが見てとれる。そう考えた時に、やはり元隊長の妻の行動はかなり奇妙なものに見える。まるで意に介していないというか空気を読めないというか。部下の射殺を命じた夫のことはどう思ってるのかしらと、むしろ気になってしまう。

ゆきゆきて神軍を見て、これらのシーンはかなり印象に残った。それはやはり、複雑でわかりにくいからこそなのかもしれない。わかりやすい映像を通して、表情や仕草、行動が提示されるからこそ、そこに現れるわかりにくさに魅せられ、心が惹かれ、揺さぶられるのかもしれない。私にとっての映像の力とは、まさにそういうところにある。



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