見出し画像

アクアリウム26

初めて会った時の印象が
あまりにも幻想的であったせいか
こうした何の変哲もない日常の中で、彼女を目にすることに
齟齬を感じる。なんとも不思議な感覚だ。

相変わらず線の細い美しさは、周りから際立ち
彼女の周りの空気だけ、静かに歪んでいく様な
錯覚に陥りそうになる。

胸打つ鼓動は、速度を増す。

あぁ。どうしよう。

臆病な僕はどうしてこうなのか?
今のこの状況をちょっとだけ後悔するという
矛盾する感情に揺さぶられる。

彼女が3つ前の席に座った。
雲間から光が差す。小雨はお天気雨に変わりだしていた。
優しく彼女の背中をなでる光を眺めていると

紫色の後ろ姿が、すでに彼女の横に立っていた。
目ざとい力亜は、吊革につかまって、彼女の横顔を
無遠慮に見つめていた。

腰を浮かせようと思った時
力亜は何がしかの言葉を、彼女にかけていた。
バスの音で聞き取れない。

髭を生やした力亜の顔は、僕を一度見ると
小首を傾げた。
どういう意味なんだろう?

力亜の隣に、やっとの思いで来た。
こんなに近くで彼女を見るのは、初めてだ。
儚げな美しさだが、幽霊でないことに安心した。
それから大急ぎで、弁解を始めた。

「あ、あの。はじめまして。あ、いや。本当は一度
この先の水族館で、お見受けしました。あのコイツは僕の友達で
こんな格好ですけど、決して怪しい者ではないです。
ナンパとかそんなんでもないです。えっと、急に声をかけてしまって
ごめんなさい。」

言葉を並べるたびに、なんだか怪しさを助長しているようで
不毛な気がする。僕はなんて口下手なんだろう。

「どうしても、聞きたいことがありまして。えっと
以前、どこかでお会いしたことありませんでした?
あ、僕は梶っていいます。梶裕一です。」

ここまで一息に話した僕は、尚も緊張していた。
バスの振動で体が揺れているのか
緊張で体が震えているのか分からない。

その震えを手で確かめるように
力亜は僕の肩に手を置いた。

彼女は僕の顔を見ると、困ったように曖昧に笑うだけだった。
その笑顔が僕の心を捕えて離さない。

「あの、勧誘とかそんなんでもないです・・・えっと、えっと。」

力亜は手に力をこめて、揺さぶった。

「この娘、日本人なのかな?」力亜は僕の宥めるように言った。

(え?)

「俺が話しかけた時も、同じ反応だったけど。」

「あ・・・。あの・・・。」どう見ても日本人にしか見えない。

もしかしたら耳が不自由な人なのかもしれない。

「すいません。僕の話していること分かりますか?」
僕はできるだけゆっくりと、彼女が唇を読みやすいように
だけど、声は小声で聞いてみた。
すると
彼女はやっぱり困ったように 頷くだけだった。

「いこう。裕ちゃん。」力亜は方を引っ張る

僕は尚も食い下がろうとして、彼女に「あの、あの。」と
繰り返していたが、力亜は無理に引っ張った。

「裕ちゃん。諦めたほうがいいよ。」

「どうして?」僕は半ば意固地になっていた。

「彼女、音は聞こえるけど、たぶん何らかの理由で
声が出せないんだと思う。」

「・・・・・そうなのかな。」

「無視するような、人には見えないだろ?
あの顔はたぶん『コミュニケーションが取れなくてごめんなさい
って詫びてる顔だよ。』外国人も同じような表情をする。
ただ、裕ちゃんの言葉は理解しているようだから、やはり
失語症とか、声が出ないとか、そういう事情がある人なんだよ。」

「あぁ。」

たぶん力亜は優しい。
僕が傷つかないように、早々に手を打ってくれたのだろう。
でも、諦めたくはない。

僕は、やっぱり悲しかった。
残念で遣り切れなかった。

停車するバス
彼女の横を通り過ぎる時
最後かもしれないと、眼を合わせて
詫びるような会釈をして、バスを降りた。

魅力的な、困ったような笑顔も見納めかもしれない。

気持ちとは裏腹に、空は晴れて
秋を留めようと必死でもがく太陽が、放射状に光線を放っていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?