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アクアリウム29

バスの一件から数日経って
未だに彼女の姿を心のどこかで探す日々を送っていた。
ただ、水族館へはもう行く気がしなかった。

なんだか、恥ずかしい出会いになってしまった上に
逃げるようにその場を去ったからなぁ。

今度、彼女を見かけたら
筆談でもいい。一人で声をかけよう。
あれから、一つ習慣ができた。
ポケットに小さい鉛筆のついたメモ帳を忍ばせている。
いつか、このメモ帳に彼女の言葉が書かれればいいな。
淡い想いに、ちょっとセンチメンタルになりかけている。

予備校の帰り道、力亜は用があると言って
早々に帰って行ってしまった。きっとまた要人を招いての
ホームパーティなのだろう。

すっかり日の暮れた晩秋の、大通りを
ポケットに手を突っ込んで歩く。今夜の受験勉強の夜食にしようと
新しくできたパン屋に入った。こじんまりとした店だが
とても雰囲気がいい。それにここのパンは天然酵母を使っていて
時間が経っても、美味しいのだ。

トングをカチカチと鳴らしながら、鼻歌交じりに
美味しそうなパンを3つ選んで、袋に詰めてもらった。
左手でちょっと袋をブラブラさせながら
いつもより少しゆっくり歩いて帰った。


何故か急に呼ばれた気がして振り返った。
すると

ブレーキ音と
鈍い大きな衝撃

「あ!」

路肩に斜めに乗り上げたスクーター
ドライバーは慌てて、体勢を立て直して
凄いスピードで去っていった。

ドライバーが怪我をしてないらしくてよかった。と思った矢先
音がした所に何か落ちていた。
「なんだろう?雑巾かな。」

目を凝らしてみるとそれは雑巾ではなかった。
怪我をした子犬だ
気づいたのは僕だけだった。慌てて駆け寄って
恐る恐る子犬を触った。
子犬は既に、異常なタイミングで呼吸をして
信じられない動き方で、体を痙攣させていた。
毛の色で分かりにくかったが、頭と胸からかなりの出血があるみたいだ。

誰の目から見ても、もう駄目なことは明らかだ。
(あぁ、どうしよう。)狼狽していると
周りの視線が集まり始めていた。
彼らの視線から隠すようにして、両の手でそっと
子犬を掬うようにして抱き上げた
(あぁ、なんて酷い。)
胴体の骨が折れてしまって、ひしゃげた体になってしまっていた。

僕はとっさに袋のパンを、鞄に詰め換えて
袋の中に、子犬を入れてあげた。
こんな所で息絶えるよりか、どこか静かなところで…。
そうだ。近くに公園がある。そこに連れて行ってあげよう。

子犬が亡くなる前に僕は駆け足で、公園へ向かった。

サワリ
と葉擦れの音がする公園は
大通りの喧騒が嘘のようにとても静かだった。
ソフトフォーカスの電灯の下を歩くと、ベンチを見つけた。

ハンカチの上に子犬を乗せ、両の手で包んであげた
まだ、息がある。ここならば、静かでいいだろう?
僕は子犬の最期を見届ける、神聖な気持ちになっていた。
命の重さを感じて、どうすることもできない自分が
とても情けなかった。

刻一刻と色を失ってゆく命。
どのくらいの時間が経ったろう
子犬はその生涯を閉じた。僕は再びハンカチで子犬を包みなおして
袋に入れた。埋葬場所を探すためだ。

あの木の下がいい。
帰り道とは一本はずれていたたため、気づかなかったが
この公園には大きなスズカケの木があったのだ。
散歩道を歩いて、スズカケの木の根元に行くと
穴を掘った。この木の一部になって、帰ってきてくれるといいな。

埋葬が終わると、その上を撫でて、合掌した。
今度花でも持ってくるからね。

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